私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

ボウイ訳詞『Big Brother』:独裁者とは人民の心身を自らの「所有物」としてその掌中に収めている人物であり、他者を完全に我有化(appropriate)しているという意味では奴隷の主人に等しい

塵や薔薇に語り掛けることなかれ
さもなくば我等
自らの鼻先に白粉を振らざるべけんや
去りし年の悪行のために生きることなかれ
我に鋼(はがね)を
我に鋼(はがね)の心を
我に非リアルなパルスの発信源を与えよ
 
彼は硝子の精神病院を建てるだろう
ほんのわずかな破壊行為によって
彼はより良い渦巻きを構築するだろう
我等は罪を原点として生きるだろう
そしてその時こそが
我等にとって本当の始まりとなるだろう
 
救い主よ、救い主よ
いでよ我等が前に!
そして我が声を聞け
我はグロテスクなほどに生々しく汝のものなり
 
我等の心身を掌中に収める人
我等が付き従うべき人
時には我等を蔑む人
戦士アポロの如き人
時には我等を欺く人
まるであなたのような人
 
そんなあなたを
我等は待ち望む

 
ビッグ・ブラザー
ビッグ・ブラザー

 
アンタ、自分が超堅物(カタブツ)だと思ってるよね?
でもアンタは
ありとあらゆるものを創造した上に
ありとあらゆるところに居られるんだろ?
主よ
アンタ、ヤクの量を増やした方がいいと思うよ
もしもアンタがこれから起きることをすべて知ってるんならね
 
我等の心身を掌中に収める人
我等が付き従うべき人
時には我等を蔑む人
戦士アポロの如き人
時には我等を欺く人
まるであなたのような人
 
そんなあなたを
我等は待ち望む

 
ビッグ・ブラザー
ビッグ・ブラザー
 
本曲のサビの出だしである"Someone to claim us"は長年私の悩みの種だった。動詞"claim"の代表的な意味は「~を主張する」という他動詞であり、"claim"に「~にクレームを付ける」(和製英語)という意味がないの有名な話だ。しかし、その目的語が「私達(us)」のような人称代名詞になった場合、これをどう訳したらよいのか分からないのだ。
 
例えば、小田嶋隆氏はある記事の中でこのフレーズを「強く主張する人」と誤訳してしまっている。"claim"の目的語は英語の構文上は明らかに"us"であるにもかかわらず、この翻訳では肝心の目的語が消えてしまっており意味不明となっている。
 
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一方、Oxford Living Dictionaries(https://en.oxforddictionaries.com/definition/claim)で"claim"を引くと、1.1節に次の意味が出て来る。
 
[with object] Assert that one has gained or achieved (something)
すなわち、動詞"claim"には「(目的語である何事かを)獲得または達成したことを主張する」という意味もあるのだ。だが、この意味での例文として示されていたのはいずれもvictoryやらadvanceといった抽象名詞を目的語とする文であり、usやyouやmeのような人称代名詞が目的語となっている例文は見当たらなかった。人称代名詞を目的語としたclaimの例文はないのかと、私は"claim us|me|you|him|her|them"などを検索ワードとしてWeb上を探しまくった。すると、"claim me"で次のエロ小説がヒットした。
 
どうやら"claim me"は「私はあなたのモノ(所有物)だと言って」または端的に言えば「私をあなたのモノにして」を意味しているらしいことが分かってきた。
 
さらに最近だと、『Claim me hard』というタイトルのこれまたエロ小説がヒットした。これは「私(という1人の女性)の所有権を主張する2人の男による争い」の物語であるらしく、同タイトルはどうやら「私はあなた(達2人?)のモノだと言ってちょうだい、もっとハゲシク」という意味らしい。
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ボウイの原詩に戻ると、"Someone to claim us"の直前に"Hear me, I'm graphically yours"という行がある。これは「聞いてくれ、私はgraphicallyにあなたのものだ」という意味であり、自分が相手(ここではビッグ・ブラザー)の所有物であると自ら告白している箇所だ。私はこれらの事実を総合して、"Someone to claim us"は直訳ならば我々のことを自らの所有物であると主張する誰かという意味であると結論するに至った。
 
それでも自信が持てなかったので、先日質問サイトのQuoraで質問(https://www.quora.com/What-does-Someone-to-claim-us-mean-in-David-Bowies-song-Big-Brother)したところ、Neil Anderson氏から最終的に次のような明確な回答を得た。
 
To claim is to state ownership. If you claim someone you own them.

訳:「claimするとは所有権を主張することである。あなたが誰かをclaimする場合、あなたはその誰かを所有している」
 
長い道のりであったが、私はついに"Someone to claim us"の真の(というと語弊があるので「多くの英語ネイティブスピーカーに受け入れられている」と言い換える)意味にたどり着くことができた。
 
なお、ボウイ本人もこの「"claim"の意味わかりにくい問題」には感づいていたようで、ライブアルバム『David Live』(1974年)に収録されているバージョンの「Big Brother」では、スタジオ版で"Someone to claim us"と歌われている箇所が、"Someone to lead us"と差し替えられて歌唱されているのだ。後者だと「我々を先導する誰か」という意味になり、後続する「Someone to follow(我々が付き従う誰か)」と相まって、"claim"にあったような曖昧さはなくなる。
(1:12辺りで"Someone to lead us"というフレーズが聴ける)
 
ボウイは「Neighborhood Threat」のカバーバージョンでも(おそらく曖昧さ回避のために)オリジナルの"bet against"という表現を"bet on"に差し替えている(詳しくは下記リンクを参照):

imnotthatkind.hatenablog.com

 
なお、"Hear me, I'm graphically yours"というラインは英語ネイティブの人にも聞き取りが困難なようで、"rapidly"や"perfectly"といった聞き取りも存在する。だがしかし、"graphically"が「グラフィカルに」という技術的な意味ではなく、「(エログロ的に)生々しく」という意味だと知った今となっては、この部分は"graphically"以外には考えられず、そのようにしか聞こえなくなってしまった(参考:http://blog.goo.ne.jp/zakkalich/e/b17537e5ceb412589dba7b09892cec50)。
 
当初は「独裁者とは何か」についての考察を書くつもりだったが、すっかり"claim"の意味を探る旅の記録になってしまったので、独裁者については次回の投稿で書くことにする。最後に、「~の所有権を主張する」という意味で日常会話で使われる"claim"という言葉と、実存主義哲学で使われる「我有化(appropriation)」という概念は通底していることだけを指摘しておきたい。

ボウイ『Fantastic Voyage』訳詞:この世に完璧な人間はいない、だからといってそれが隣国の領海内にミサイルをぶっ放す理由にはならない

(我々人類が
「地球」という船に乗っかって繰り広げてきた
「人類の歴史」という)
この奇っ怪な長旅が
いずれ衰退に転じることになったとしても
私達は決して老いることはない
覚えておけ
これが真実だ
尊厳は大事だが
我々の命もまた大事なのだ

私達は
今この世界のどこかで
誰かが抑圧に喘いでいるのを尻目に
生きることを学びつつある
もちろん私は
誰かが抑圧に喘いでいるのを見ながら
生きたいとは思わない
私達は将来
この難題に何とか決着をつけるだろうと
私は思う

この目まぐるしく変化する現代社会では
完璧な人間など存在しない
だからと言って
それがミサイルをぶっ放す理由にはならない

自分自身が
父親のいないカス野郎
(==社会のクズのような底辺生活者)だと
考えてみろ
これは将来もずっと忘れてはならない
なぜなら私達はもう二度と
何か立派で偉そうなことを言おうなどとは思わないからだ
そうだろ?

この犯罪的な世界では
間違った言葉が
我々の耳に入りがちだ
覚えておけ
これが真実だ
忠誠心は大事だが
我々の命もまた大事なのだ

私達は
今もこの世界のどこかで
誰かが抑圧に喘いでいるのを尻目に
生きることを学びつつある
もちろん私は
誰かが抑圧に喘いでいるのを見ながら
生きたいとは思わない
私達は将来
この難題を何とか切り抜けるだろうと
私は思う

しかし何らかの急な動きが発生した場合
私はそれを書き留めておかねばならない
特定の人種全体が皆殺しにされるようなことがあった場合
私はそれを書き留めておかねばならない
私は未だに勉強中の身だが
そのことだけは書き留めておかねばならない
そしてこれは将来もずっと忘れられてはならない
なぜなら私はもう二度と
何か立派で偉そうなことを言おうなどとは思わないからだ
言えるわけがないだろう?


上記のビデオはスティービー・リクス(Stevie Riks)という名のイギリスのコメディアンによるモノマネだが、決してオフザケではなく、北朝鮮関連の映像をバックに最後までシリアスに歌唱しており好感が持てる。

北朝鮮では同国の最高指導者(現在は金正恩)のことを最高尊厳(supreme dignity)と呼んでいるらしく、国民には最高尊厳への絶対的な忠誠心absolute loyalty)が求められるらしい。

「尊厳や忠誠心も大事だが、自分自身の命もまた大事だよ」という今から38年前(1979年)にボウイが書き留めたメッセージは、例えば現在も独裁政治の抑圧に喘いでいる北朝鮮の人民や、世界各地で自爆テロを行っている急進的なイスラム教徒に向けたものだと解釈すると納得がいく。

ボウイは、今から38年前に、主として独裁者や国家により過酷な抑圧を受けている人々がこの世界に多数存在しているという問題を「いつか我々は何とかして切り抜けるだろう、と僕は思う(we'll get by, I suppose)と楽観視していたが、今もまだその「いつか」は来ていない。

ボウイ訳詞『What In The World』:「唯一無二の花」がもし存在するなら、それは「花」というカテゴリーには入りきらず、なんだか得体が知れない不気味な「分類不能なもの」として感じられる筈だ

君は鼠色の目をした少女に過ぎない
だが何も気にすることはない
何か言いたいことを言って
群集が叫びだすまで待つがいい
そう
群集が叫びだすまで待つのさ
君は鼠色の目をした少女に過ぎないのだから

君は自分の部屋の奥に
引きこもったきり出てこない
僕の心の奥底にある何かが
僕の心の奥底にある切なる思いが
この暗闇を通して君に語りかける
この世界の中で君には何ができるの?
この世界の中で君ができることは何?
そして僕はといえば
君に恋しちゃいそうな気分

僕はちょっとだけ君が怖い
なぜなら愛は君を泣かせはしないし
君は愛に対して不感症だから
でも群衆が立ち去るまで待とう
そう
群衆が行ってしまうまで待つのさ
僕はちょっとだけ君が怖い

君は自分の部屋の奥に
引きこもったきり出てこない
僕の心の奥底にある何かが
僕の心の奥底にある切なる思いが
この暗闇を通して君に語りかける
この世界の中で僕には何ができるの?
この世界の中で僕ができることは何?
そして僕はといえば
君と恋に落ちそうな気分

さあそれで?
これから君は何を言う?
何をやろうとする?
そして何であろうとする?
現実の私(リアル・ミー)にとって
本当の私(リアル・ミー)にとって

原詩:https://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/whatintheworld.html


この歌詞の語り手である「僕(I)」は、前回(https://blogs.yahoo.co.jp/onitsuka_k_koichi/69582034.html)と違って「幽霊」ではない。この語り手は、曲の終わり際に、聴き手である「あなた」に対して、今後あなたは何を主張し、何をやろうとするのか、そして将来的にあなたは
「現実の私・本当の私(リアル・ミー)」
にとって何者であろうとするのか?と問う。

「本当の私(Real Me)」と言えば、真っ先にThe Whoの名曲『Real Me』を思い出す。


Can you see the real me preacher?
Can you see the real me doctor?
Can you see the real me mother?
Can you see the real me?
この曲もナイーブさの極みだが、この素朴さを何人たりとも嗤うべきでない。精神科医も母親も宗教者も誰一人として「リアル・ミー」が見えていない。彼らの脳はまるで、海を泳ぐ生物なら全て「魚」、空を飛ぶ生物なら全て「鳥」としてしか認識できないかのようだ。

リアル・ミーが見えていない医者、母親、宗教家。彼らには、「本当の私」すなわち「自分の思い通りには決して行動しない、既存のカテゴリーに当てはめることができない全き他者としての私」を敏感かつ精緻に感知する能力が根本的に欠けているのであり、そのような「他者」に帰せられるあらゆる微妙で微細な特徴を鋭敏に感じ取る能力が決定的に欠けているという意味で、彼らは「味音痴」ならぬ「他者音痴」だ。味音痴はともかく、他者音痴は本人の努力次第で克服できるのだろうか?おそらくは、できる、かもしれない。何の根拠もありはしないが、大いなる目的を持った自己鍛錬や自己教育次第では、他者音痴を克服できるかもしれない。そのような自己教育の超ささやかな実践例として、散歩のついでに毎日バードウォッチング(鳥見)を行うことを推奨したい。いやマジで。もちろん、一方的に鳥を見る(写真に撮る、レジャー対象として消費する)のではなく、野生動物と上手く共存していく活動にコミットすることも大切だ(例:神奈川県茅ヶ崎市で続けられている水田維持活動 http://sannsuikai.eco.to/)。

川崎洋氏の詩に『存在』という作品がある。

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥と言え頬白と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え
さらでだに
「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え

この詩は、「カテゴリーと実在」、「種と個体」、「数(かず)と実存」、「集合への違和感」、「数とは何か」などに関する哲学的な考察を読む者に迫る。「魚」~「花」のくだりは「類と種」の関係に言及したものであるが、最後の2行に至って「個体」および「固有名」が出てくる。個体の固有性とは何かを突き詰めると、最終的には「既存のカテゴリーからはみ出る個体」や「いかなる既存の集合にも属していない個体」に思い至らざるを得ない。集合からはみ出ない固有性とは操作対象に貼り付けた単なるラベルに過ぎない。

個体の固有性とは絶対的に唯一無二の事象である。この唯一無二性を"One Of A Kind"と捉えてはならない。"One Of A Kind"とは「単独のカテゴリーをそれ自体で形成している唯一の要素」を指すイディオムであり、通常「唯一無二、ユニーク」という肯定的な意味で使われる。集合論における単集合(シングルトン)の発想の源がこれだ。

だがよーく考えてみよう。「唯一無二の事象」はカテゴリー(類、種、ジャンルなど)を形成するだろうか?ある1つのカテゴリーとは「同じ(ような)モノ・事象が複数存在している」という認識の上に形成されるものではないのか?あるカテゴリーに含まれる要素が唯一であるという主張は、その要素が絶対的に唯一無二であることを意味しない。単集合(シングルトン)とは、ある集合にいくつ含まれていても構わない要素の数がたまたま1つである状態を意味する。したがって当然ながら、集合論では絶対的に唯一無二の事象を扱えない。もしも集合論で絶対的な唯一性を語ろうとすると「唯一だが無二ではない事象が存在する」という語義矛盾に行き着くだろう。だが、「唯一だが無二ではない事象が存在する」という発想は、例えば「点」を「部分を持たないオブジェクト」と定義するのと同様のごまかし(端的に言えば「」)に過ぎない。

「ありふれたもの」を指す表現として「犬の糞」という言葉があるが、ある国民的アイドルグループが歌唱した有名な曲のタイトルを「世界に一つだけの犬の糞」と揶揄したのは小田嶋隆氏だったように記憶している。

「唯一無二の花」がもし存在するなら、それは「花」というカテゴリーには入りきらない。それは「花」としてではなく、なんだか得体が知れない不気味で妖しい「分類不能なもの」として感じられる筈である。

60年代後半~70年代後半までのロック音楽は、そのような分類不能の妖しさや不気味さが最大の魅力だった。初期のボウイもそうだが、特に初期のRoxy MusicBrian Enoの作品群には、分類不能が故の妖しさと不気味さを強く感じる。


ボウイ訳詞『Breaking Glass』:おせっかいなポルターガイスト(騒がしい霊)は音(サウンド)と映像(ビジョン)を通じてあなたにメッセージを送るが、あなたに触れることは決してない

愛する人

私は今日もまた
あなたの部屋にあるガラス類*
割り続けている

ほら
耳を
澄ましてごらん
(ガラスの割れる音)

うつむいて
カーペットを見つめるのは止めなよ
カーペットの上には
私がとってもおぞましい絵を
描いておいたよ

見えたかい?

あなたはとても素晴らしい人だ

でも
あなたはいくつか問題を抱えている

おお
おお
おお
おお

私が自分から
あなたに触れることは
今後も決して
ない

原詩:https://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/breakingglass.html

*訳注:本曲の邦題は『壊れた鏡』であったが、語り手である「私(I)」がbreakingしている目的語の"glass"は無冠詞単数であるため、これは「(特定の)窓ガラス、グラス(ガラス製のコップ)、鏡(looking-glass)」などではなく、不可算集合名詞としての「ガラス素材、ガラスでできたもの一般、ガラス製品」を意味する。なので、ここでは「ガラス類」と訳した。


この詞の語り手である「私(I)」は、「生きている人間」ではなく「幽霊」だとしてみよう。

この幽霊は、生きている人間である「あなた(You)」に特別な関心を抱いている。それは、あなたのことを「ベイビー(baby)」(*注)と呼んでいることから分かる。この幽霊は、夜毎あなたの部屋に降臨しては、あなたの部屋の中にあるガラス製品(例えば、ガラス製のコップや額縁にはめ込まれているガラスなど)を割ったり、床に敷かれたカーペットに奇妙な落書き(染み)を残したりする。つまり、この語り手である私は「ポルターガイスト(騒がしい霊)」の一種なのだ。

*注:『Low』の日本盤LP初版(1977年発売)に添付の歌詞では、この曲の冒頭の歌詞が"Baby"ではなく"Lately"と聞き取りされており、私もそのようにずっと聞こえていた。しかし今回、多くの歌詞サイトで"Breaking glass"の歌詞を検索したところ、ほとんどのサイトが"Baby"を採用しており、EMI版デジタルリマスタCD(1999年発売)に添付の歌詞カードでも"Baby"だった。今回改めて聴き直したところ、もはや"Baby"としてしか聞こえなくなってしまった。

この幽霊はあなたとの肉体的な接触を望んでいない。望むも何も、そもそも幽霊は物理的な肉体を持っていないのだから、幽霊はガラスの砕ける音(耳に聞こえるもの)やカーペット上の染み(目に見えるもの)を通じて「間接的」に自分のメッセージをあなたに伝え(ようとす)ることはできるかもしれないが、あなたの肉体に「直接」触れることは原理的に不可能なのだとも言える。そういや『ゴースト』というクソのような映画では、死んだ夫の霊が生きている妻との肉体的接触(要するに「性交」)を果たすために、霊媒師の女性に憑依するという荒技を使っておったように記憶する。キモッ。

つまり、この幽霊は、音(サウンド)と映像(ビジョン)のみを通じて、
「私はあなたの近くにいて、あなたを見守っているよ、どうか私(の存在)に気付いて!」

というメッセージを、何らかの問題を抱えているらしい「あなた」に送っているのだ!まったくもう、この幽霊、おせっかいにもほどがあるってもんだが。

だがここで、そのようなメッセージの受け手となるはずの「あなた」の聴覚および視覚に問題があったとしたらどうなるか?なお、視覚および聴覚に問題があるということは、身体的な障害ではなく、「見る目が無く」しかも「聞く耳を持っていない」ということの比喩的な表現でもありうる。

もしそうだとすると、この騒がしいお節介焼きの幽霊がガラスを割る音(サウンド)やカーペット上に描いた何らかの画像(ビジョン)を通じてあなたに送ろうとしたメッセージは、あなたには一切伝わっていないことになる。つまり、何らかの奇跡が起きて、突然あなたの目が見え耳が聞こえるようにならない限り、この幽霊の存在をあなたが知ることは今後も決してないのだ。

本曲を含むボウイのアルバム『Low』が発表されたのが1977年初頭。その後ほどなくして、初期のボウイを含む一部の先鋭的なアーティストたちが追求していたようなシリアスなロック音楽は1970年代末までに終了した。奇跡は起きなかった。そもそも奇跡とは、誰かが意図的に起こすものでもなく、期待して起きるものでもなかろう。

若い人にとっては信じられないことだろうが、1960年後半から1970年代末までのごく短い期間、ボウイを含む一部のロックアーティストたちは、一部の意識的な聞き手たちにとっては、紛れもなく「お節介な教育者」として機能していたのだ。だが今でも、お節介な他者からの自己教育を促す働きかけが、将来起こるかもしれない奇跡の遠因となることは十分に考えられる。

サディスティックミカバンドの『塀までひとっとび』の歌詞をその「音」だけに注目して英訳してみた

Dice key is a sooky nut
He chats-chats or charged them all
You know me he taught two
Who tattoo?
Sooky,sooky,sooky nut!

Gotta gotta go net them all
Murder a mad-hate chat racket
Hey my dear, he's taught to be
Sooky,sooky,sooky nut!

Cool rush, she knows cheat yet no
She's a nooky gurky nun though
Taught her coony night yawn
Sooky,sooky,sooky nut!



原詩は以下の通り。

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ミカバンドは1975年のRoxy Musicのヨーロッパでの「Siren Tour」で前座を務めたので有名だ。オーストラリアとニュージーランドの「Siren Tour」で前座を務めたのは、なんとあのスプリット・エンズだったらしい。(参考:

「塀までひとっとび」は1974年当時としてはあまりにもファンキーでぶっ飛んだ曲であり、いろんなアーティストに影響を与えている。

最も影響が顕著なのは「ドリフの早口言葉」だ。


志村けん氏はファンクミュージックのファンであり、昔、『プレイボーイ日本版』(月刊)でブラックミュージックのレコード(新譜?)に関する、凡庸なコラムを書いていたように記憶する。

あと、クリス・トーマスつながりだが、ブライアン・フェリーの「東京ジョー」の歌詞
"
She hokey-cokey till the cows come home"
(シ ホキ コキ ティルザ カウズ カム ホーム)
に見られるような奇妙な音感を強調した歌詞は、この「塀までひとっとび」の「ヌキ ガキ ナン ゾ」や「スーキー スーキー スーキー ナッ!」の影響を多大に受けているように思う。


また、日本語による暴力的なサウンド・コラージュの試みという意味では、初期のサザンオールスターズの歌詞に多大な影響を与えているように思える。

そういや、「がきデカ」には「桂馬でひとっとびー」というセリフがあった。かつて、山上たつひこ氏は非常に言葉に敏感な漫画家の一人だった。
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ところで、2番の歌詞の出だしは、これまでずっと「ダダがこねても」だと思い込んでいたので、当初は
「Dada got to connect them all」(ダダ ガットゥ コネクト エム オール)と英訳していた。だが、歌詞カードを確認したところ「ガダガタ ごねても」だった。「駄々をこねる」に引っ掛けて「ダダがこねても」の方が歌詞として絶対面白いと思うんだけど。

ちなみに上記の英訳した歌詞をgoogle翻訳にかけた結果を以下に示す。その他のWeb上で無料で利用できる機械翻訳も試したが、google翻訳が一番面白かった。

ダイス・キーはソーキーナッツです
彼はチャットチャットやチャージ
あなたは彼が2つを教えてくれた
誰の入れ墨?
おかしい、すっかり、すっごいナッツ!

それらのすべてを網状にしなければならない
奇妙なチャットラケットを殺す
ちょっと私の親愛なる、彼は教えている
おかしい、すっかり、すっごいナッツ!

クールなラッシュ、彼女はまだチートを知っている
彼女はぞっとするような厄介な尼僧だ
彼女の亀裂夜の夜明けを教えた
おかしい、すっかり、すっごいナッツ!

ロキシー・ミュージック訳詞『The Space Between』:固定的な「男と女」、「親と子」、「医者と患者」、「生産者と消費者」、「攻めと受け」という関係は真の対等関係でないが故に「正しく」ない

The way I see it
This relationship ain't right
The space between us
Better close it up tonight
The space between us
Close it up tonight


我が哲学に照らして
この関係は
正しくない

今夜は
我々の間にある
この空間を
閉じた方が良い

 

<<訳詞解説>>
来るべき完全接続メッシュ型社会における成員(メンバー)同士の関係は、「真の対等(peer to peer)関係」でなければならないと定義する。

精神分析医と被分析者」という固定的な関係は正しくない。さらに一般化すると、固定的な「医者と患者」という関係が正しくないのは、それが固定的な「親と子」、「教師と生徒」、「師匠と弟子」、「男と女」、「生産者と消費者」、「売り手と買い手」 、「書き手と読み手」、「演奏者と聴衆」、「スターとファン」関係と同様、「人格的に真の対等関係」になっていないからだ。

例えば「親と子」や「(恋愛関係または婚姻関係を構成する)男と女/男と男/女と女」という固定的な関係を「人格的に対等な“正しい”関係」へと変革するためには、D.ボウイの"Oh!you pretty things"や"Kooks"の詩に見られるような「人は誰しも捨て子である」という透徹した認識(orphanism)を普及させなければならない。

マルコムX」という奇妙な名前を初めて知ったのは、Steel Pulseのセカンドアルバムのタイトル曲「Tribute to the Martyrs」(https://www.youtube.com/watch?v=7lK69c2_TYo)(1979年)からだった。最近になって読んだ『マルコムX自伝』によれば、マルコムは、彼が通っていた中学校のクラスで唯一の黒人であったが、学業成績は常にトップであり(数学は苦手だったらしいが)、級長にも選ばれたという。だが、自分が級長になれたのは、当時の白人の教師や里親やクラスメートたちが自分を「マスコット」ないし「ペット」的な存在として扱っていた結果に過ぎないことを彼は見抜く。また、彼は中学卒業後、弱冠16歳で若くて裕福な金髪の白人既婚女性の情夫となるが、当時の黒人男性にとって娼婦以外の白人女性を「モノにする」ことは、黒人コミュニティにおける最上級の「勲章」であり、彼は自分が獲得したその勲章を大いに利用して同コミュニティでの存在感を示すのだが、その一方で彼は、その白人女が自分のことを「自己の欲望充足や差別化に利用できる魅力的な性的対象」としてしか認識していないことを見抜いて絶望している。

マルコムXは白人への憎悪(hate)をむき出しにした演説を行った。

The white man to ask the black man if he hates him is just
like the rapist asking the raped, or the wolf asking the
sheep, 'Do you hate me?'

マルコムXが望んでいたのは白人との完全に「対等(peer to peer)」な関係だった。

マルコムXは、自らがかつて所属していたイスラム教の教団が遣わした刺客から殺される直前に、彼の憧れだったメッカ巡礼を果たしており、人種も国籍も異なるイスラム教信者間で実現されている対等性にいたく感動している。だが、神(アラー)を中心としたスター型トポロジーにおけるメンバー同士の関係は果たして完全に対等(peer to peer)だろうか?それは神というイデアを媒介としてしか通信できない隣り合う信者間の「隣人愛」にすぎないのではないか?

我々は、何らかのイデア(火、太陽、神、数、貨幣、男根など)を中心としたスター型社会における「隣人愛」を克服し、自己からは無限に遠く離れた到達不可能な場所に存在する他者への「遠人愛」をベースとした完全接続メッシュ型ネットワークトポロジー社会への移行を模索すべきである。

 

セックス・ピストルズ訳詞『God Save the Queen』:観光客とは貨幣だ、伊藤比呂美「アウシュビッツ ミーハー」、ボウイがレイプされたジャケ写(非実在)について

神よ女王を救い給え
狂ったファシスト政権が
お前ら大衆を全員アホにしちまった
水爆並の可能性を持っていたはずの大衆を

神よ女王を救い給え
あのババアは人間じゃない
夢見がちなイングランドには
何の未来もない

自分の欲しいものは何かも
自分に必要なものは何かも
他人から言われなきゃ分からないのか?

そんなお前らには
未来もなけりゃ明日もない
お先真っ暗だ

神よ女王を救い給え
俺たちマジで
女王が大好きだ
神は彼女を救い給う(棒)

神よ女王を救い給え
なぜって観光客はいいカネになるから
だが俺たちの名目上のリーダーは
彼女が思っているようなものじゃない

神よ歴史を救い給え
神よあのお前らの気違いパレードを救い給え
あぁ主よどうかお慈悲を
このままだと
すべての犯罪が報いられることになってしまいます!

未来がないなら
罪もありようがない
我々はゴミ箱の中に咲いた一輪の花だ
我々は人間機械の内部に忍び込んだ毒物だ
我々が未来だ
お前ら大衆の未来だ

神よ女王を救い給え
俺たちマジで
女王が大好きだ
神は彼女を救い給う(棒)

神よ女王を救い給え
俺たちはマジで言いたい
夢見がちなイングランドには
何の未来もないんだと

今のままじゃ
未来もなけりゃ
明日もない
お前らも俺もみんな
お先真っ暗状態のまま
悲惨な死を迎えるしかない


原詩:http://www.azlyrics.com/lyrics/sexpistols/godsavethequeen.html
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<<訳詞解説>>
6月6日付の読売朝刊文化面には、「ゲンロン0 観光客の哲学」という書籍を紹介した次のような記事が掲載されていた。
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同記事によれば、
「観光客」は「当事者」の対義語で、特定の共同体にのみ属する「村人」ではないし、どの共同体にも属さない「旅人」でもない。
これは「観光客とは貨幣だ(Tourists are money)」という意味だと直観した。しかも、観光客とは、
祖国の体制とは無関係に、ナショナリズムグローバリズムといった2層構造を行き来し、グローバリズムを肯定する存在でもある
らしいから、
それは貨幣は貨幣でも「仮想通貨」(ビットコインとかリップルとかイーサリアムとか)がピッタリだね!さあみんな、「仮想通貨」になっちゃいなよ!

...などというような嫌味な冗談はさておき、今このような「ふまじめな観光客」を称揚する文章を読んで、伊藤比呂美の「アウシュビッツ ミーハー」という詩を思い出す人はもういないのだろうか?

アウシュビッツ ミーハー」は伊藤氏の「テリトリー論II」(1985年刊)に収録されていた詩であり、伊藤さんがアウシュヴィッツ・ビルケナウ博物館を観光客として訪問した体験を元に書かれたと思われる内容。ふざけているのは(照れ隠しと思われる)自虐的なタイトルだけで、詩の内容は恐ろしく真面目だ。

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また、David Bowieはアルバム「Lodger」で、「ある場所で行き詰まり、にっちもさっちもいかなくなると何もかも放り出して咄嗟に旅に出る、世界中を気ままに旅する”間借り人”」を称揚する曲を歌う一方で、「(おそらくは彼の間借り先の地元民である村人によって)公衆便所でボッコボコにされ、鼻の骨をへし折られた白人男性」の(ポラロイド風)写真をアルバムジャケットに採用している。

これは「アウシュビッツ」という”重い”単語の後にすかさず「ミーハー」という”軽い”単語を繋げることにより単なるお気楽な観光客でしかない自分を対象化するという自嘲的な行為と同様、ボウイのアーティストとしての自己諧謔的なバランス感覚の発露であり、特定の共同体にのみ属する「村人」ではないし、どの共同体にも属さない「旅人」でもない単なる「間借り人」を称揚した自分に対して、相応しい罰を与えているのだ。
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ただ、上記アルバムジャケットのインパクトはそれほど強くなく、いっそ(村人によって)
ボウイがレイプされた写真」がジャケ写だったなら、それなりに衝撃的ではなかったかと思う。

マルコムX「白人が黒人に向かって”俺が憎いか?”と聞くのは、レイプ犯がレイプ被害者に向かって ー または狼が羊に向かって ー ”俺が憎いか?”と聞くのと同じだ」と述べ、白人への憎悪を露わにしたが、他者を蹂躙した者にはそれに相応する罰が下されるべきだ。少なくとも、「不真面目で恥知らずの観光客や間借り人には、”他者”を蹂躙した廉(かど)により、いつか相応しい罰が下されるかもしれない」という不吉な予感を忘れないことは重要かと思う。