私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

ボウイ訳詞『Time』:○○とは何か。そう問われない時には私はそれを知っている。だが、そう問われた時に私はそれを知らない。小説と数学の共通点に関するメモ

時間 ー 彼は舞台の袖で待っている
彼は意味のないことばかり口走る
彼のスクリプトは君と僕だ

時間 ー 彼は娼婦のように体を曲げる
マスかきながら床に倒れ込む
彼のトリックは君と僕だ

時間 ー クアールード(
Quaalude*)と赤ワイン
ビリー・ドールを召喚する
そしてその他の僕の友人たちも

Take ー まぁそう慌てずに
Your ー 君の好きなだけ
Time ー たっぷり時間をかけてくれ

脳内の狙撃者
逆流する下水溝
近親相姦の自惚れ屋の
そしてその他多くの姓(かばね)たちよ

僕はふと腕時計を見る
時刻は9時25分だ
そして思う
「おお神よ、僕はまだ生きています!」

さあ、そろそろ出なきゃ
さあ、そろそろ出る時間だよ

君は ー 被害者じゃない
君は ー 退屈で叫んでいるだけ
君は ー 時間を追い立てはしない

鐘の音 ー 畜生、君、やけに老けて見えるよ
そんなんじゃ凍えて風邪を引くよ
なぜってコートを置いてきたから

Take ー まぁそう慌てずに
Your ー 君の好きなだけ
Time ー たっぷり時間をかけてくれ

別れることは辛いけど
破綻した関係を隠し通すことはもっと辛いよ
僕はこれまでたくさんの夢を見た
そしてたくさんの驚くべき飛躍を経験した
だが愛する君よ
君は確かに優しかった
けれども愛が君から夢を奪った
夢への扉は閉ざされた
君の庭園はリアルで夢がない

恐らく君は微笑んでいる
この暗闇越しに微笑んでいる
だけど僕が君に与えなければならなかったものはただ一つ
それは
夢見ることへの罪悪感

さあ、そろそろ出なきゃ
さあ、そろそろ出る時間だよ
さあ、そろそろ僕ら、揃って舞台に出る時間だよ

そう、時間だ

*注:Quaaludeとは米国で製造されている薬物メタカロンMethaqualone)の商品名。

原詩:https://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/time.html

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訳詞解説:
「○○とは何か。そう問われない時には私はそれを知っている。だが、そう問われた時に私はそれを知らない」という名言(?)が存在する。これは、特定の共同体内部の暗黙の了解に基づいて○○という言葉を使用することと、当該共同体の内部には存在しない者に向けて○○を明示的に定義することは全く異なる行為であることを意味しているのではないか。

いつだったか、たけし(ヨーローじゃなくてビートの方)が「小説と数学は似ている」と発言したことがあったように記憶していたのだが、ググっても出てこなかった。出てきたのは、「映画を撮るときには数学的(または論理的)なアプローチが有効だ」という単なる凡庸な話だった。

我思うに、小説と数学が似ているのは、どちらも意図的に未定義語の存在を許すところだ。

そして両方とも、いくつかの公理(決まり)を守りさえすれば、どんなにアクロバティックなことをやろうと許される世界であることが共通している。ある種の人にとって小説空間とは自由な楽園なのだろう。それはまるで、ヒルベルトが称揚した「カントールが我々に切り開いてくれた数学という自由な楽園」にそっくりだ。

「自由」と「放恣」の線引きは難しいが、例えば「カントールが切り拓いてくれた数学というこの自由な楽園」とかいう時の「自由」とは限りなく「放恣」に近いのではないか。カントール-ヒルベルト-ゲーデルという系譜をして、数学史に名を残す希代の「悪ノリ三人衆」と呼んだのは、ユニークな宇宙物理学者である佐藤文隆氏だった。

"小説ではいくら知ったかぶりを書いても物語世界内に適応してさえいればいい"(by 筒井康隆、『金井美恵子エッセイ・コレクション1:夜になっても遊びつづけろ』P.349~350からの孫引き)。小説とはそもそもが嘘なので、嘘空間の中でいくら嘘をついても誰からも糾弾されることはない。だって全部嘘なんだから。小説の中では、フォルクスワーゲン車にラジエーターが付いていたとしても、ボブ・ディランの「Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again」の中の"Mobile"を「車」と誤訳したとしても全部許されるのだ。

また、小説と数学の共通点として、どちらもフィジカル(物理的・肉体的)な現実を「仮想化」する営みであることが言えるのではないか。

ここで「仮想化」を「機能やサービスを抽象化して物理インフラから分離すること」と定義するならば、歴史的には、デデキントによる「無限」の定式化から「数学の仮想化」が本格的に始まったと言えるのではないか。デデキントが登場する以前においては、数学者は「数のイデア」というプラトン的妄執に囚われていたために長い間「数自体」を分析対象にできなかったのではないか。

思いっきり単純化した数学史的には、デデキントは、神が与え給うた崇高なるイデアだと思われていた「無限」を集合(発表当時は「システム」)という概念を使って定式化し、「(自然)数自体」を覆っていた神秘のベールを取り払った。その後、ヒルベルトが数学の徹底的な「公理化」を進め「数学の仮想化」が完成するかに思えた矢先に、ゲーデル・ショックが起きた。

仮想化にはオーバーコミット(オーバーブッキング)が付き物だ。だが、仮想化の基盤となる物理インフラが揺らいだ時、オーバーブッキングの嘘が暴かれ、仮想化が齎していた快適な楽園空間は実は幻想に過ぎなかったことが明らかになる…というシナリオで数学という自由な楽園にゲーデルが与えたショックを考えること。また、同じシナリオで、数学という自由な楽園にウィトゲンシュタインが与えたショックを考えること。

そしてさらに重要なのは、今日のパーソナルコンピュータプログラミングの普及と、プログラムのソースコードの全面的公開の日常化が、数学と呼ばれているこの古くて奇妙なディスコミュニケーション形態をいかに変容するのかに注目すること。

2017/10/22付記:赤字部分は以前「数学という奇妙なコミュニケーション形態」と書かれていたが、これでは「コミュニケーション」という語の定義が曖昧であるため訂正した。コミュニケーションを取りあえず「世界の複数性を前提とした、自分の意のままにならない自分以外の主体であるまったき他者との、その他者への最大限のリスペクトを基盤とした関わり合い」と定義したとすると、数学と呼ばれている非常に長い歴史を持つ文化活動はコミュニケーションではない。なぜなら数学には他者がいないからだ。同じ意味で形而上学にも自然科学にも他者はいない。もちろん文学(小説はそのジャンルの一つ)にも他者はいない。ボウイを含む1960年代~70年代後半までの一部の先鋭的なロック音楽の歌詞には、このような「自分が現在生かされている世界における他者不在状況」を克服すべき課題として指摘したものが多い。例えばB.フェリーのカバーで有名なボブ・ディランの「It ain't me babe」は「君が探し求めている対象、それは僕じゃないよ」という歌だし、ロックスターとそのファン(観客)という固定的な関係を打破することを観客に向けて諭すように歌った本曲「Time」もその一例である。

訳詞に関する蛇足:本曲『Time』の歌詞から「時間とは何か?」という問いに対するボウイによる哲学的な答えを引き出せるかもと期待した人は完全に裏切られる。本曲のテーマは「時間」という抽象的概念ではなく、ロックが好きで始めたはずなのに、今や時間に追われながら義務的にコンサート日程をこなし続けなければならないロックスターが吐露する「こんなはずじゃなかった感」であり、そのようなコンサートを行うことをロックスターに要求し続ける、夢を忘れた自堕落な観客への決別の挨拶だ。その意味では、Kinksの「WORKING AT THE FACTORY」やサザンオールスターズの「働けロックバンド」の歌詞に通じるものがあるかもしれない。なお、本曲のサビのキメ台詞である"We should be on by now"が何を意味しているかは私にとって長年の謎だったが、これが多くのネイティブ英語話者にとって「さあ、そろそろ僕ら(舞台に)出なきゃ」を意味していること、そしてこれが冒頭の一行「時間、彼は舞台の袖で待っている」に呼応していることを、https://www.quora.com/What-does-the-we-should-be-on-by-now-line-mean-in-David-Bowies-song-Time?share=4c9a47aaに書かれていたNeil Anderson氏の回答により知った。