私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

「汝自身になせることを隣人にもなせ」というロックの歌詞と隣人愛の否定

隣人、隣人、隣人
俺に「隣人」っていたっけ?
俺に「隣人」っていたっけ?
昼夜を問わず四六時中
俺に干渉してくる粘着な奴らならいるが

隣人、隣人、隣人
俺に「隣人」っていたっけ?
俺に「隣人」っていたっけ?
昼でも夜でも四六時中
俺んちのピンポンを鳴らすイカれた奴らならいるが

あのくそババアども
あのキチガイども
泣き叫ぶ赤ん坊ども
平穏も静寂もない
だからいつも俺は
テレビを大音量にして
サックスを吹きまくる
女房共々
不満タラタラ
緊張ピリピリ

何の不思議があろうか?
俺たち隣人間でイザコザが絶えないことに
何の不思議があろうか?
俺たち隣人間でモメゴトが絶えないことに

いいか隣人どもよ
無教養なお前らにおせーてやる
「汝自身になせることを隣人にもなせ」
そして
「汝自身になせることを見知らぬ人にもなせ」
っていう有難い言葉があんだよっ!
そんで
それが「人の道」っつうもんなんだよっ!!

隣人、隣人、隣人どもよ
いいかお前ら
俺が夜勤で夜中にずっと家を空けてる時に
俺の女にちょっかい出したりすんじゃねえぞ
お前らときたら
俺のテーブルから平気でかっぱらっておきながら
知らぬ存ぜぬで通しやがるからな

いいか隣人どもよ
耳の穴かっぽじってよぉーく聞け
無教養でおバカなお前らは知らねぇだろうけど
汝自身になせることを隣人にもなせ
そして
汝自身になせることを見知らぬ人にもなせ
って言葉があんだよっ!
そんで
それが「人の道」っつうもんなんだよ!!

原詩はこちら:http://www.azlyrics.com/lyrics/rollingstones/neighbours.html

1つ前の記事で訳したIggy/Bowieの『Neighborhood Threat』と対比する目的で、Rolling Stonesの"Neighbors"を取り上げてみました。これ1981年にリリースされた曲ですよ。何とまぁ能天気な歌詞で呆れますね。何を隠そうRolling Stonesは、世界3大「オトコの、オトコによる、オトコまたはオトコノコのためのロックアーティスト(the man's man's man's rock'n'roll artists for men and boys)」の一つなのです(筆者調べ)。残り2つはBob DylanFrank Zappa(筆者調べ)。

Stonesの曲には意外と説教臭い歌詞が多い。例えば、"Salt of the earth"というタイトルは新約聖書(Matthew 5:13)からの引用だ。だから、"Neighbors"の歌詞に含まれている"Do unto neighbors/strangers what you do to yourself"というフレーズは、てっきり旧約/新約聖書からの引用だと思っていたが、完全に同じフレーズは聖書の中には見当たらないようだ。似たようなフレーズとして"So whatever you wish that men would do to you, do so to them"(汝が他者にしてもらいたと望むことは何であれ、他者にもせよ)なら新約聖書Matthew 7:12)にある。また、"Do unto others as you would have them do unto you"(汝が他者をして汝に対して振る舞わせたいと望むがごとく他者に対して振る舞え)というのならWikipadia(https://en.wikipedia.org/wiki/Golden_Rule)にあった。しかし、聖書に含まれている「隣人」に関する言葉の代表例は、"Love your neighbor as yourself"(Matthew 22:39など)であるようだ。すなわち、「汝の隣人を汝自身の如く愛せ」である。

ところで、マルティン・ブーバー著の『汝と我・対話』(岩波文庫、訳:植田茂雄)に収録されている『対話』という作品には、隣人愛を明確に否定した箇所がある。

出会うべき人々と直接の関係に立ち得ない者の充実は、まことに無意味である。ルターはヘブライ語の<友>を、<隣人>(もっとも近きものの意)という意味に変容するという誤りを犯した。すべて具体的なものが等しく近くにあり、もっとも近くにあるとするならば、世界との交わりの生活は、もはや肢体や構造や、人間的な意味を持つことを止めるであろう。しかし、われわれが同じ中心に対する関係の中に結ばれているかぎり、創造への共同の友として、互いに近づくときはいつでも、わたしと友の間には、いかなる媒介をも必要としないのである。(強調は引用者)


このブーバーの言葉は、従来型の地縁血縁ベースの絆に回帰しようとする人々や、SNS等を媒介とした束の間の隣人との「つながり」で安心・満足するような人々に対して容赦なく冷水を浴びせる。

「出会うべき人々と直接の関係に立つ」ということは、(ブーバーによれば人間が語る根源語(basic words)としての)「我-これ(I-It)」ではなく「我-汝(I-You)」の関係に全面的にコミットすることであり、何よりも他者を機能としてではなく人格として捉えることである。

従来型のコミュニティにおいては「隣人」とは人格ではなく機能であった。それは「主(あるじ)」や「嫁」や「子」が「家」にとって機能であったのと同様である。だが、例えば、「嫁」を介護要員(という機能)として利用するようなシステムはもはや破綻している。私の個人的な経験で言えば、自分の思惑を超えたまったく独立した人格として他者を尊重する態度が最重要視されない場合、集合住宅の管理組合活動も自治会(町内会)活動も、すぐに戦時中の「隣組」のようなものになり下がってしまう。将来の地域住民(たまたまお互い近くに居住している人たち)による来るべきコミュニティの構築が成功するかどうかは、他者を機能としてしか見ないような「隣組」臭を払拭できるかどうか、にかかっているのではないだろうか。