私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

マトゥンビ(Matumbi)訳詞『RocK』:岩よ、揺れよ、だが我(I)には落ちるな

岩よ、揺れよ
だが我(I)には落ちるな

岩よ、揺れよ
揺れて転がり落ちよ
だが我の上には落ちるな
おお、岩よ
揺れて崩れ落ちよ
だが我の上には落ちてくれるな


Rock, rock, don't you fall on I
Rock, rock, don't you fall on I
Oh Rock
Don't you fall on I

父なる神が生命の書を紐解くために
七つの封印を開くことを決めたとき
地上のすべての邪悪者よ
警告を受け入れるがよい
なぜなら我と我(I&I)の予言がすべて現実となるからだ

When the Father decides to open
Open  up the book of life
And to loose those seven seals
All wicked men on earth take warning
For what I and I say is real

岩よ、圧制者(という名の岩)よ、揺れよ
だが我には落ちるな
岩よ、圧制者(という名の岩)よ、揺れよ
揺れて転がり落ちよ
だが我の上には落ちるな
おお、岩よ
揺れて崩れ落ちよ
だが我の上には落ちてくれるな


Say you can rock, but don't you fall on I
Yes, you can rock, but don't you fall on I
Rock, oppressor rock, but don't you fall on I
Rock, oppressor rock, but don't you fall on I
Oh rock
But don't you fall on I

今まさにこの地上に存在する
アフリカの圧制者たちよ
直ちに我が人民を解放せよ
そして特にソウェトの圧制者たちよ
直ちに我が人民を解放せよ

Oppressor down there
Down there in Africa
Let my people go
Especially down in Soweto I say
Set my people free

おお、岩よ、どうかやめてくれ
おお、岩よ、私の上には落ちないでくれ
どうかそれだけはやめてくれ
おお、岩よ、なぜお前は私の上に落ちようとするのか


Oh rock, you shouldn't do that
Oh rock, don't you fall on I
should never do that
Why you fall on I

汝、彼揺るるを許さば、必ずや彼、汝の上に落ちんとす
汝、彼揺るるを許さば、必ずや彼、汝の上に落ちんとす
彼揺るるを許すべからず
彼揺るるを許すべからず

If you low im fi rock, im will fall on you*
If you low im fi rock, im will fall on you*
Do no low im fi rock, no low im fi rock*

*注: これらの行のみが、いわゆるPatoisで書かれている。(パトワ==ジャマイカクレオール言語。ただし厳密に言えば、MatumbiやLKJがその歌詞で使用している言語はパトワではなく、標準的な英語の単なるポストコロニアル版でもないらしい(出典:書籍『Mi Revalueshanary Fren』の前書き(http://goo.gl/TQl0kU))。通常の英語で書き下すと、この部分は次のようになる。

If you allow him to rock, he will fall on you
Do not allow him to rock, don't allow him to rock


上記の"low"、"im"、"fe"などの意味に関しては『Rasta/Patois Dictionary』http://niceup.com/patois.htmlを参照されたい。


岩よ、揺れよ
岩よ、岩よ

Rock, rock
Rock, rock

注:この訳詞は私がずいぶん前にとあるブログのコメント欄(http://alga.moe-nifty.com/xor/2010/08/1-1-f168.html)に投稿したものに基づいている。なお、当時は気づいていなかったが、今思えば、この詩の独自性は「岩=神=まったき他者」という主張にあると感じる。それはつまり、「汝、岩に神性を感じるのは構わぬが、岩を「汝」としてではなく「それ」として認識し、「それ」に対して気安く呼びかけることなかれ。ましてや自分に都合の良いように「それ」を利用しようと試みることなかれ」という主張ではないか。言い換えれば、その岩なら岩(他者)をまずは「まったき他者」としてリスペクトせよ、ということであり、その岩なら岩(他者)を、自らの思考や操作の対象(客体==客観的事物)にはなり得ない「主体(主観)としての他者」としてリスペクトせよ、という強いメッセージではないか。

本ブログ記事では今後、「自己(self)」と「自我(ego)」を明確に区別することにしたい。自己とは客体(それに対する制御や操作が可能となる客観的事物)としての自分自身のことである、と定義しよう。これに対して、自我とは「いかなる意味でも客体にはなり得ない主体(主観)」のことであり、それは原理的に「自己==誰にでも妥当する客観的な自分自身」による思考の対象とはなりえないものである、と定義しよう。思考対象として捕まえようとするとスルリと逃げる、本質的にevasiveかつelusiveな主体こそが自我である、としよう。つまり、自我とは「まったき他者」である。これに対して「自己」は十分には他者でない。たとえば、人は「自己反省」はできるが「自我反省」はできない。人は鏡に写った自己の像を眺めることはできる。だが、自我は、いくら合わせ鏡(高性能のカメラやビデオ機器)を駆使したとしても決して明確な像を結ぶことがないため、反省(振り返り)の対象とはならない。

今後は、以上の定義を踏まえて、自我を自己の「内なる獣」(the beast inside)として捉えることは正当だろうか、について検討したい。