私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

ボウイ訳詞『Breaking Glass』:おせっかいなポルターガイスト(騒がしい霊)は音(サウンド)と映像(ビジョン)を通じてあなたにメッセージを送るが、あなたに触れることは決してない

愛する人

私は今日もまた
あなたの部屋にあるガラス類*
割り続けている

ほら
耳を
澄ましてごらん
(ガラスの割れる音)

うつむいて
カーペットを見つめるのは止めなよ
カーペットの上には
私がとってもおぞましい絵を
描いておいたよ

見えたかい?

あなたはとても素晴らしい人だ

でも
あなたはいくつか問題を抱えている

おお
おお
おお
おお

私が自分から
あなたに触れることは
今後も決して
ない

原詩:https://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/breakingglass.html

*訳注:本曲の邦題は『壊れた鏡』であったが、語り手である「私(I)」がbreakingしている目的語の"glass"は無冠詞単数であるため、これは「(特定の)窓ガラス、グラス(ガラス製のコップ)、鏡(looking-glass)」などではなく、不可算集合名詞としての「ガラス素材、ガラスでできたもの一般、ガラス製品」を意味する。なので、ここでは「ガラス類」と訳した。


この詞の語り手である「私(I)」は、「生きている人間」ではなく「幽霊」だとしてみよう。

この幽霊は、生きている人間である「あなた(You)」に特別な関心を抱いている。それは、あなたのことを「ベイビー(baby)」(*注)と呼んでいることから分かる。この幽霊は、夜毎あなたの部屋に降臨しては、あなたの部屋の中にあるガラス製品(例えば、ガラス製のコップや額縁にはめ込まれているガラスなど)を割ったり、床に敷かれたカーペットに奇妙な落書き(染み)を残したりする。つまり、この語り手である私は「ポルターガイスト(騒がしい霊)」の一種なのだ。

*注:『Low』の日本盤LP初版(1977年発売)に添付の歌詞では、この曲の冒頭の歌詞が"Baby"ではなく"Lately"と聞き取りされており、私もそのようにずっと聞こえていた。しかし今回、多くの歌詞サイトで"Breaking glass"の歌詞を検索したところ、ほとんどのサイトが"Baby"を採用しており、EMI版デジタルリマスタCD(1999年発売)に添付の歌詞カードでも"Baby"だった。今回改めて聴き直したところ、もはや"Baby"としてしか聞こえなくなってしまった。

この幽霊はあなたとの肉体的な接触を望んでいない。望むも何も、そもそも幽霊は物理的な肉体を持っていないのだから、幽霊はガラスの砕ける音(耳に聞こえるもの)やカーペット上の染み(目に見えるもの)を通じて「間接的」に自分のメッセージをあなたに伝え(ようとす)ることはできるかもしれないが、あなたの肉体に「直接」触れることは原理的に不可能なのだとも言える。そういや『ゴースト』というクソのような映画では、死んだ夫の霊が生きている妻との肉体的接触(要するに「性交」)を果たすために、霊媒師の女性に憑依するという荒技を使っておったように記憶する。キモッ。

つまり、この幽霊は、音(サウンド)と映像(ビジョン)のみを通じて、
「私はあなたの近くにいて、あなたを見守っているよ、どうか私(の存在)に気付いて!」

というメッセージを、何らかの問題を抱えているらしい「あなた」に送っているのだ!まったくもう、この幽霊、おせっかいにもほどがあるってもんだが。

だがここで、そのようなメッセージの受け手となるはずの「あなた」の聴覚および視覚に問題があったとしたらどうなるか?なお、視覚および聴覚に問題があるということは、身体的な障害ではなく、「見る目が無く」しかも「聞く耳を持っていない」ということの比喩的な表現でもありうる。

もしそうだとすると、この騒がしいお節介焼きの幽霊がガラスを割る音(サウンド)やカーペット上に描いた何らかの画像(ビジョン)を通じてあなたに送ろうとしたメッセージは、あなたには一切伝わっていないことになる。つまり、何らかの奇跡が起きて、突然あなたの目が見え耳が聞こえるようにならない限り、この幽霊の存在をあなたが知ることは今後も決してないのだ。

本曲を含むボウイのアルバム『Low』が発表されたのが1977年初頭。その後ほどなくして、初期のボウイを含む一部の先鋭的なアーティストたちが追求していたようなシリアスなロック音楽は1970年代末までに終了した。奇跡は起きなかった。そもそも奇跡とは、誰かが意図的に起こすものでもなく、期待して起きるものでもなかろう。

若い人にとっては信じられないことだろうが、1960年後半から1970年代末までのごく短い期間、ボウイを含む一部のロックアーティストたちは、一部の意識的な聞き手たちにとっては、紛れもなく「お節介な教育者」として機能していたのだ。だが今でも、お節介な他者からの自己教育を促す働きかけが、将来起こるかもしれない奇跡の遠因となることは十分に考えられる。