私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

ボウイ訳詞『What In The World』:「唯一無二の花」がもし存在するなら、それは「花」というカテゴリーには入りきらず、なんだか得体が知れない不気味な「分類不能なもの」として感じられる筈だ

君は鼠色の目をした少女に過ぎない
だが何も気にすることはない
何か言いたいことを言って
群集が叫びだすまで待つがいい
そう
群集が叫びだすまで待つのさ
君は鼠色の目をした少女に過ぎないのだから

君は自分の部屋の奥に
引きこもったきり出てこない
僕の心の奥底にある何かが
僕の心の奥底にある切なる思いが
この暗闇を通して君に語りかける
この世界の中で君には何ができるの?
この世界の中で君ができることは何?
そして僕はといえば
君に恋しちゃいそうな気分

僕はちょっとだけ君が怖い
なぜなら愛は君を泣かせはしないし
君は愛に対して不感症だから
でも群衆が立ち去るまで待とう
そう
群衆が行ってしまうまで待つのさ
僕はちょっとだけ君が怖い

君は自分の部屋の奥に
引きこもったきり出てこない
僕の心の奥底にある何かが
僕の心の奥底にある切なる思いが
この暗闇を通して君に語りかける
この世界の中で僕には何ができるの?
この世界の中で僕ができることは何?
そして僕はといえば
君と恋に落ちそうな気分

さあそれで?
これから君は何を言う?
何をやろうとする?
そして何であろうとする?
現実の私(リアル・ミー)にとって
本当の私(リアル・ミー)にとって

原詩:https://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/whatintheworld.html


この歌詞の語り手である「僕(I)」は、前回(https://blogs.yahoo.co.jp/onitsuka_k_koichi/69582034.html)と違って「幽霊」ではない。この語り手は、曲の終わり際に、聴き手である「あなた」に対して、今後あなたは何を主張し、何をやろうとするのか、そして将来的にあなたは
「現実の私・本当の私(リアル・ミー)」
にとって何者であろうとするのか?と問う。

「本当の私(Real Me)」と言えば、真っ先にThe Whoの名曲『Real Me』を思い出す。


Can you see the real me preacher?
Can you see the real me doctor?
Can you see the real me mother?
Can you see the real me?
この曲もナイーブさの極みだが、この素朴さを何人たりとも嗤うべきでない。精神科医も母親も宗教者も誰一人として「リアル・ミー」が見えていない。彼らの脳はまるで、海を泳ぐ生物なら全て「魚」、空を飛ぶ生物なら全て「鳥」としてしか認識できないかのようだ。

リアル・ミーが見えていない医者、母親、宗教家。彼らには、「本当の私」すなわち「自分の思い通りには決して行動しない、既存のカテゴリーに当てはめることができない全き他者としての私」を敏感かつ精緻に感知する能力が根本的に欠けているのであり、そのような「他者」に帰せられるあらゆる微妙で微細な特徴を鋭敏に感じ取る能力が決定的に欠けているという意味で、彼らは「味音痴」ならぬ「他者音痴」だ。味音痴はともかく、他者音痴は本人の努力次第で克服できるのだろうか?おそらくは、できる、かもしれない。何の根拠もありはしないが、大いなる目的を持った自己鍛錬や自己教育次第では、他者音痴を克服できるかもしれない。そのような自己教育の超ささやかな実践例として、散歩のついでに毎日バードウォッチング(鳥見)を行うことを推奨したい。いやマジで。もちろん、一方的に鳥を見る(写真に撮る、レジャー対象として消費する)のではなく、野生動物と上手く共存していく活動にコミットすることも大切だ(例:神奈川県茅ヶ崎市で続けられている水田維持活動 http://sannsuikai.eco.to/)。

川崎洋氏の詩に『存在』という作品がある。

「魚」と言うな
シビレエイと言えブリと言え
「樹木」と言うな
樫の木と言え橡の木と言え
「鳥」と言うな
百舌鳥と言え頬白と言え
「花」と言うな
すずらんと言え鬼ゆりと言え
さらでだに
「二人死亡」と言うな
太郎と花子が死んだ と言え

この詩は、「カテゴリーと実在」、「種と個体」、「数(かず)と実存」、「集合への違和感」、「数とは何か」などに関する哲学的な考察を読む者に迫る。「魚」~「花」のくだりは「類と種」の関係に言及したものであるが、最後の2行に至って「個体」および「固有名」が出てくる。個体の固有性とは何かを突き詰めると、最終的には「既存のカテゴリーからはみ出る個体」や「いかなる既存の集合にも属していない個体」に思い至らざるを得ない。集合からはみ出ない固有性とは操作対象に貼り付けた単なるラベルに過ぎない。

個体の固有性とは絶対的に唯一無二の事象である。この唯一無二性を"One Of A Kind"と捉えてはならない。"One Of A Kind"とは「単独のカテゴリーをそれ自体で形成している唯一の要素」を指すイディオムであり、通常「唯一無二、ユニーク」という肯定的な意味で使われる。集合論における単集合(シングルトン)の発想の源がこれだ。

だがよーく考えてみよう。「唯一無二の事象」はカテゴリー(類、種、ジャンルなど)を形成するだろうか?ある1つのカテゴリーとは「同じ(ような)モノ・事象が複数存在している」という認識の上に形成されるものではないのか?あるカテゴリーに含まれる要素が唯一であるという主張は、その要素が絶対的に唯一無二であることを意味しない。単集合(シングルトン)とは、ある集合にいくつ含まれていても構わない要素の数がたまたま1つである状態を意味する。したがって当然ながら、集合論では絶対的に唯一無二の事象を扱えない。もしも集合論で絶対的な唯一性を語ろうとすると「唯一だが無二ではない事象が存在する」という語義矛盾に行き着くだろう。だが、「唯一だが無二ではない事象が存在する」という発想は、例えば「点」を「部分を持たないオブジェクト」と定義するのと同様のごまかし(端的に言えば「」)に過ぎない。

「ありふれたもの」を指す表現として「犬の糞」という言葉があるが、ある国民的アイドルグループが歌唱した有名な曲のタイトルを「世界に一つだけの犬の糞」と揶揄したのは小田嶋隆氏だったように記憶している。

「唯一無二の花」がもし存在するなら、それは「花」というカテゴリーには入りきらない。それは「花」としてではなく、なんだか得体が知れない不気味で妖しい「分類不能なもの」として感じられる筈である。

60年代後半~70年代後半までのロック音楽は、そのような分類不能の妖しさや不気味さが最大の魅力だった。初期のボウイもそうだが、特に初期のRoxy MusicBrian Enoの作品群には、分類不能が故の妖しさと不気味さを強く感じる。