私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

Roxy Music訳詞『In Every Dream Home A Heartache』(部分訳):如何なる理想の家庭と雖もそこには或る心の痛みが存する

この記事(http://withnews.jp/article/f0160421002qq000000000000000W01110101qq000013301A)を見て、この作品の作者の意図に反して、私はRoxy Musicの「In Every Dream Home A Heartache」を真っ先に思い出しました。同曲の後半の訳詞を下記に示します。

私はお前を通販で購入した

我が愛しのベイビーは
中身が分からないように包装されていた
お前の肌はまるでヴァイナル
まさに完璧なコンパニオンだ
お前が我が家の新築のプールに浮かぶ様は
デラックスの極みだ

膨らませ式の人形よ


お前に仕えるのが私の役目だ

人はお前のことを「使い捨て式のダーリン」などと呼ぶが
今や私はお前を捨てられない

不老不死でありかつ等身大の人形よ
私の息がお前の内部に注入される

私は毎日お前を美しく着飾ろう

死に際のため息までもお前に吹き込もう

ビニール製の風船人形よ


この感謝知らずの愛人よ

ある日私は
つい息を吹き込み過ぎて

お前のを破裂させた


だが逆に
お前は

私のを破裂させた


原詩はこちら:http://www.azlyrics.com/lyrics/roxymusic/ineverydreamhomeaheartache.html

Roxy Musicの4thアルバムのジャケットは、それが発表された1974年当時は(当時中学生であった私にとって)非常に衝撃的なヌード写真だったが、2016年現在、腹の膨れたダッチワイフラブドールのどでかいヌード写真に対してあなたが何らかの倒錯性ないし「居心地(見心地?)の悪さ」を感じるとしたら、その本質的な理由は何だろうか?それはもしかして、ラブドールに限らずヌード写真自体に、いわゆる『身心/心身問題(Mind–body problem)』が潜んでいるからではないか。そしていわゆる心身問題自体も何だかとってもイカガワシイ感じがするのは、それが前提としている枠組みにおいて「あなたの思惑通りには決して行動しない主体としての他者」が徹底して不在だからではないか。これはとてもムツカシくて非常に重要な問題なので、東海林さだお氏が「内臓とわたし」(書籍『猫大好き』に収録、同書のカバー裏表紙にはデカルトの似顔絵がある!)というエッセイで取り上げている心身二元論(に関する誤解)をネタとして、いずれ別稿でハゲシク検討したい。

余談:私は、Bête NoireツアーでBryan Ferryが来日した際(1988年10月)に、渋谷のNHKホールでのコンサートに行ったことがあるが、音響も演奏もまぁ酷いもんだったけど、この曲がNicoの"The End"っぽいアレンジで演奏されたのだけは記憶に残ってる。あれ以来、ロックコンサートというものには行ってない。ていうか、ロックのコンサートに行ったことがそもそも数えるほどしかないことに今気付いた。


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髪型イイネ!セクシーなトランプさん、私、あなたが大好きよ!

Hey babe, your hair's all right
Hot Trump, I love you so!

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ボウイの『Rebel Rebel』の訳詞はこちら:http://www.lepoche.com/essay/rebel_rebel.html

 
『Rebel Rebel』はBay City Rollersもカバーしている。
 

 

言葉は 降る雨の如く お前をすり抜ける

親愛なるハイドへ

私にはもうこれ以上説明できない
懸命に試してはみたのだが
私が説明に費やした
千言万語は
すべて無駄に終わった

言葉は
降る雨の如く
お前をすり抜ける


言葉は
お前の本質を射抜くことなく
お前の表層を滑り落ち
下水溝へと消え去る


雲一つない空から
なおも雨が降る
内(うち)なる雨が

   よぉ兄弟
   なぁーに固くなってんだよ
   もっとリラックスして
   他ならぬ「今、ここ」で起こっていること
   それをまず受け入れなよ
   俺はあんたの良き相棒だ
   絶対ヘマは犯さない
   だから
   あんたは俺の火をくべろ
   俺はあんたに日陰をつくってやる
   あんたにゃ俺のつくる日陰が必要なんだよ


ハイドよ
そこにいるんだな
頼むから
もう一度私に
霊感を与えてくれ
私はどうしてもお前を言葉で捉えたいんだ

「この奇妙に結びつけられた
不確実なフレーム
そして
ずたずたに引き裂かれた内面」

あぁこんな言葉では駄目だ
なおも雨は降る

「2つの心が
1つの血管に宿る」

あぁこんな陳腐な言葉では駄目だ
なおも雨は降る
内なる雨が

   よぉ先生
   なぁーにビビってんだよ
   俺とあんたの仲じゃないか
   俺の分け前はどこだい?
   俺は主役を張る柄じゃない
   俺は常に脇へと退く男さ
   だから今後は俺のことをミスターって呼んでくれ
   そう、ミスター・ハイドと呼んでくれ

   よぉ愛人
   なぁーに恥ずかしがってんだよ
   俺は一途な心の男さ
   でも注意した方がいい
   俺はちょいと乱暴者でね
   半人前じゃあ十分強くはなれないぜ

   よぉ兄弟
   なぁーに固くなってんだよ
   もっとリラックスして
   他ならぬ「今、ここ」で起こっていること
   それをまず受け入れなよ
   俺はあんたの良き相棒だ
   絶対ヘマは犯さない
   だから
   あんたは俺の火をくべろ
   俺はあんたに日陰をつくってやる
   あんたにゃ俺のつくる日陰が必要なんだよ

原詩はこちら:http://www.azlyrics.com/lyrics/roxymusic/stillfallstherain.html


<<訳詞解説>>
ボブ・ディランの頭の中』(原題"Masked and Anonymous")という映画で、"Drifter's escape" という曲の演奏中に、John Goodman 扮するプロモーターが次のように語る。

「これが何についての曲か分かるか?この曲を聴いて思い浮かぶのは,人間の持つ「ジキルとハイド」的な本質であり、そしてこの曲がハイドの視点から書かれているということだ」




だが、"Drifter's escape" という曲の歌詞は全然そのようなものではない。同曲の訳詞はこちら(http://butan.o.oo7.jp/bobdylan/JOHNWESLEYHARDING.html)が現時点ではWeb上でピカイチ(非常に的確な訳で、日本語としてとてもこなれた素晴らしい訳詞)。

人間が根本的に抱えている自己の二重性とその解決(のなさ)について「ハイドの視点から書かれた曲」とは、私の知る限り Roxy Music の "Still falls the rain" しかない。




「汝自身になせることを隣人にもなせ」というロックの歌詞と隣人愛の否定

隣人、隣人、隣人
俺に「隣人」っていたっけ?
俺に「隣人」っていたっけ?
昼夜を問わず四六時中
俺に干渉してくる粘着な奴らならいるが

隣人、隣人、隣人
俺に「隣人」っていたっけ?
俺に「隣人」っていたっけ?
昼でも夜でも四六時中
俺んちのピンポンを鳴らすイカれた奴らならいるが

あのくそババアども
あのキチガイども
泣き叫ぶ赤ん坊ども
平穏も静寂もない
だからいつも俺は
テレビを大音量にして
サックスを吹きまくる
女房共々
不満タラタラ
緊張ピリピリ

何の不思議があろうか?
俺たち隣人間でイザコザが絶えないことに
何の不思議があろうか?
俺たち隣人間でモメゴトが絶えないことに

いいか隣人どもよ
無教養なお前らにおせーてやる
「汝自身になせることを隣人にもなせ」
そして
「汝自身になせることを見知らぬ人にもなせ」
っていう有難い言葉があんだよっ!
そんで
それが「人の道」っつうもんなんだよっ!!

隣人、隣人、隣人どもよ
いいかお前ら
俺が夜勤で夜中にずっと家を空けてる時に
俺の女にちょっかい出したりすんじゃねえぞ
お前らときたら
俺のテーブルから平気でかっぱらっておきながら
知らぬ存ぜぬで通しやがるからな

いいか隣人どもよ
耳の穴かっぽじってよぉーく聞け
無教養でおバカなお前らは知らねぇだろうけど
汝自身になせることを隣人にもなせ
そして
汝自身になせることを見知らぬ人にもなせ
って言葉があんだよっ!
そんで
それが「人の道」っつうもんなんだよ!!

原詩はこちら:http://www.azlyrics.com/lyrics/rollingstones/neighbours.html

1つ前の記事で訳したIggy/Bowieの『Neighborhood Threat』と対比する目的で、Rolling Stonesの"Neighbors"を取り上げてみました。これ1981年にリリースされた曲ですよ。何とまぁ能天気な歌詞で呆れますね。何を隠そうRolling Stonesは、世界3大「オトコの、オトコによる、オトコまたはオトコノコのためのロックアーティスト(the man's man's man's rock'n'roll artists for men and boys)」の一つなのです(筆者調べ)。残り2つはBob DylanFrank Zappa(筆者調べ)。

Stonesの曲には意外と説教臭い歌詞が多い。例えば、"Salt of the earth"というタイトルは新約聖書(Matthew 5:13)からの引用だ。だから、"Neighbors"の歌詞に含まれている"Do unto neighbors/strangers what you do to yourself"というフレーズは、てっきり旧約/新約聖書からの引用だと思っていたが、完全に同じフレーズは聖書の中には見当たらないようだ。似たようなフレーズとして"So whatever you wish that men would do to you, do so to them"(汝が他者にしてもらいたと望むことは何であれ、他者にもせよ)なら新約聖書Matthew 7:12)にある。また、"Do unto others as you would have them do unto you"(汝が他者をして汝に対して振る舞わせたいと望むがごとく他者に対して振る舞え)というのならWikipadia(https://en.wikipedia.org/wiki/Golden_Rule)にあった。しかし、聖書に含まれている「隣人」に関する言葉の代表例は、"Love your neighbor as yourself"(Matthew 22:39など)であるようだ。すなわち、「汝の隣人を汝自身の如く愛せ」である。

ところで、マルティン・ブーバー著の『汝と我・対話』(岩波文庫、訳:植田茂雄)に収録されている『対話』という作品には、隣人愛を明確に否定した箇所がある。

出会うべき人々と直接の関係に立ち得ない者の充実は、まことに無意味である。ルターはヘブライ語の<友>を、<隣人>(もっとも近きものの意)という意味に変容するという誤りを犯した。すべて具体的なものが等しく近くにあり、もっとも近くにあるとするならば、世界との交わりの生活は、もはや肢体や構造や、人間的な意味を持つことを止めるであろう。しかし、われわれが同じ中心に対する関係の中に結ばれているかぎり、創造への共同の友として、互いに近づくときはいつでも、わたしと友の間には、いかなる媒介をも必要としないのである。(強調は引用者)


このブーバーの言葉は、従来型の地縁血縁ベースの絆に回帰しようとする人々や、SNS等を媒介とした束の間の隣人との「つながり」で安心・満足するような人々に対して容赦なく冷水を浴びせる。

「出会うべき人々と直接の関係に立つ」ということは、(ブーバーによれば人間が語る根源語(basic words)としての)「我-これ(I-It)」ではなく「我-汝(I-You)」の関係に全面的にコミットすることであり、何よりも他者を機能としてではなく人格として捉えることである。

従来型のコミュニティにおいては「隣人」とは人格ではなく機能であった。それは「主(あるじ)」や「嫁」や「子」が「家」にとって機能であったのと同様である。だが、例えば、「嫁」を介護要員(という機能)として利用するようなシステムはもはや破綻している。私の個人的な経験で言えば、自分の思惑を超えたまったく独立した人格として他者を尊重する態度が最重要視されない場合、集合住宅の管理組合活動も自治会(町内会)活動も、すぐに戦時中の「隣組」のようなものになり下がってしまう。将来の地域住民(たまたまお互い近くに居住している人たち)による来るべきコミュニティの構築が成功するかどうかは、他者を機能としてしか見ないような「隣組」臭を払拭できるかどうか、にかかっているのではないだろうか。

「近隣の脅威」に関する危険な賭け

アンタが住んでるご立派なマンションの
裏にあるボロ家に
引きこもりの男が独りで住んでいる
奴はアンタに気に入られようなんて
ハナっから思っちゃいない
だから
アンタは奴が気に入らない
アンタは言う
「奴の目を見たかい?ありゃマジでキチガイの目だぜ」
アンタは奴と会話したことは一度だってない
でもアンタはそう言いふらしてる

だけどほんとはアンタ
奴に初めて会ったとき
奴がアンタのケツにキスしなかったことに
ビックリしちゃったんだろ?
ここいらの住民はみんな
アンタのケツにキスしたがるのにね
だけど奴はそうしなかった
アンタはそのことに超ムカついてんだろ?

あの男が苦境に喘いでるのは確かだよ
だけどアンタにゃ奴を救えないし
誰も奴を救えない
そんなこたぁ奴だってとっくに分かってる
アンタを含むここいらの住民からは
何の助けも得られないってことを

だけどアンタ
今後もずっと
アンタの危険な賭けを
続けるつもりかい?
この「近隣の脅威」に対して

どっかで赤ん坊が泣いてる
どっかでおっ母さんが金の工面に困ってる
そのおっ母さんにはプータローの息子がいて
そいつは四六時中ワケわかんねぇこと叫んでる
「奴の目を見たかい?ありゃマジでイカれてるぜ」
アンタはそう言いふらしてる

だけどほんとはアンタ
奴と目が合ったとき
奴がアンタの金玉を磨かなかったことに
ビックリしちゃったんだろ?
ここいらの住民はみんな
アンタの金玉を磨きたがるっていうのにね
だけど奴はそうしなかった
アンタはそのことに腹を立ててるんだろ?

あの男が金に困っているのは確かだが
アンタにゃ奴を救えない
誰も奴を救えない
奴だって分かってる
アンタやこの周辺の住民からは
何の助けも得られやしないってことを

だけどアンタ
今後もずっと
アンタの危険な賭けを
続けるつもりかい?
この「近隣の脅威」に対して

原詩はこちら:http://www.azlyrics.com/lyrics/iggypop/neighborhoodthreat.html

2016年2月現在の日本では、「近隣の脅威」(neighborhood threat)と言えば、北朝鮮による核実験やら弾道ミサイル発射やらがもたらす軍事的な脅威を連想するが、Iggy PopDavid Bowieによるコラボ作品の一つである『Neighborhood Threat』のテーマは、あなたの近所に住んでいる「あなたの思惑通りには絶対に行動しない他者」なのである。

中国、ロシア、韓国、北朝鮮などの国を、日本にとっての「厄介な隣人」、「困った隣人」、「メンドくさい隣人」などに喩える文章がしばしばメディアに登場したりもするが、もしそれらの「隣人」が「あなたの思惑通りには絶対に行動しない他者」であったとしたらどうか。そのような隣人との間で執り行う(あるいは意識的に執り行わない)折衝や外交などの活動は結局、行き当たりばったりの、どっちに転ぶか分からない賭けでしかなくなるだろうか?

また、一挙に話のスケールは小さくなるが、ご近所トラブルのよくある例として「ゴミ屋敷」問題があるが、そのゴミ屋敷の住人が「あなたの思惑通りには絶対に行動しない他者」であったとしたらどうか。当人を説得することは不可能なので、有無を言わさぬゴミの強制撤去しか打つ手はなくなるのだろうか。

だが、この数年間、自分が居住している集合住宅の管理組合および居住地域の自治会活動に参加したりしてしみじみ感じるのは、将来の地域住民同士による来るべき新しい形のコミュニティは、「あなたの思惑通りには絶対に行動しない他者」が目の前に厳然として存在していることを前提に構築されなければならない、ということだ。将来的には、外国人の受け入れだけでなく、日本人の日本国内の移動(災害時を含む)もさらにスムーズに行えるようにする必要がある。今後は、市民が自主的自発的に運用する無線通信システムの実現を踏まえて、そのような来るべきコミュニティのあり方を考えていきたいと思う。

歌詞に関する蛇足:Iggyのアルバム"Lust for Life"に収録されているオリジナルバージョンの『Neighborhood Threat』は、Bowieのアルバム"Tonight"に収録されている同曲とは、やや歌詞が異なっており、特に大きな違いはIggy版の最終行が"Will you still place your bet Against the neighborhood threat"であるのに対して、Bowie版は"Will you still place your bet On the neighborhood threat"
になっていることである。"place one's bet against..."には「~でないことに賭ける」という意味があるため、"bet against"を"bet on"と変更すると意味が逆転するのでは?と戸惑ってしまう。推測だが、Bowie版では、ポピュラリティーを意識して、多義的な"bet against"という表現を、ある程度無難な"bet on"に言い換えたのではないかと思われる。






この瞬間に絶望は終わり、そして戦略が始まる

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The Pop Groupの1979年リリースの作品『 We are all prostitutes』(7インチシングル)のジャケットには同曲の歌詞が印刷されているのだが、その最下行に次のようなセンテンスがある(この部分は歌唱されない)。

"at this moment, despair ends and tactics begin"
<訳>この瞬間に絶望は終わり、そして戦略が始まる


これは、Raoul Vaneigem(ラーウル・ヴェネイジャム)著、「The Revolution of Everyday Life, 1972」http://library.nothingness.org/articles/SI/fr/display/36(日本語版なし、仮訳『日常生活の革命』、オリジナルのフランス語版は1967年発行)からの引用だと思われる。同書は、1960年代の左翼活動家たちにとってのバイブルであるらしく、フランス五月革命(1968年)の一因になったとさえ言われている。

1979年当時、The Pop Groupのメンバーたちが何の戦略・戦術も持ち合わせていなかったのは明白だ。また、非常に残念ではあるが、現在も彼らは何の戦略・戦術も持っていない。だから、彼らは相も変わらず音楽活動をやるしかないのだ。彼らのファンであった我々自身も、現時点では、「すべての人に値段が付けられている」この屈辱的な世界を変革するための具体的な戦略・戦術を何も持っていないことを認めなければならない。だが、そんな状態をいつまで続けるのか?

社会変革の具体的な戦略の一例としては、無線ネットワーク通信の分野において、新たなる『市民帯域』(Citizens' band)を創設ないし獲得することが考えられる。いつになるかは分からないが、専門の通信事業者に依拠することなく、市民が自力で高速の無線通信を行えるような時代がきっと来るはずだ。



ゲット・バックの呪縛

ジョジョってオトコは
クールでイカした一匹狼を気取ってたけど
田舎に居続けたんじゃ
そんなポーズを続けらんないことも十分承知してた
(彼はとても聡明なオトコなのだ)
そこでジョジョは生まれ故郷(ド田舎のアリゾナ州はツーソン)を飛び出して
カリフォルニアのヒッピー村へと潜り込んで
ハッパ三昧の日々を過ごした

戻れ
お前が元いたトコロに戻れ
戻れ
かつてお前がいた場所に戻れ

戻れやジョジョ
田舎さ帰(けえ)れ!

とってもスウィートなロレッタ・マーティン女史は
自分が「超トンガったイケてるオトナのオンナ」だと思ってた
だけどオトコである俺に言わせりゃ
彼女は単に「どこにでもいるありふれた二流のオトコ」にすぎなかった
彼女の周りの女の子たちはみんな
彼女はいずれ(自らの言動が原因で)痛い目を見るはずだって言うけど
彼女は稼げるうちにガンガン稼ぐだろう

戻れ
お前が元いたトコロに戻れ

古き良き時代には
オトコがオトコらしく
オンナがオンナらしくあったように
みんな自分が本来所属していたカテゴリーに戻れ!

戻れやロレッタ
田舎さ帰(けえ)れ!

お袋さんは
お前の帰りを待っとるよ
ハイヒールさ履いて
ローネックのセーターさ着て

戻れ
戻れ
お前が元いたトコロに戻れ
<解説>ゲット・バックの呪縛とは、かつての自己の帰属先であった何らかの古き良きカテゴリーへと戻ることは無条件に良いことだというオチに話を落着させてしまうこと。この呪縛に搦め捕られないように気を付けよう。
 
なお、Loretta Martin節での"But she gets it while she can"の意味に関しては、10ccの"Get It While You Can"(シングル"Art for Art's Sake"のB面曲)の歌詞(下記リンクを参照)が参考になる。ニュアンス的には、ぽっと出のタレントに対して、どうせ売れっ子でいられるのは今のうちだけなんだから、「稼げるウチにせいぜい稼いどけや」とか言う感じに近いのではと。そして、これは、Jojo節における"But he knew it wouldn't last"に対応しているのだろう。

10ccの"Get It While You Can"の歌詞はこちら:http://www.azlyrics.com/lyrics/10cc/getitwhileyoucan.html