私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

ボウイ訳詞『Rock 'n Roll With Me』:ロックスターの悲痛な叫び - 1974年当時、ボウイは自分のコンサートに集う観客に対して心底絶望していたのかもしれない

あなたはいつも事情通の一人だった
だから彼らはあなたのような人たちに
僕らを売り込んだ
僕はと言えば常に新しい環境を求めていた
たとえばどこかに部屋を一つ借りるとかして
 
その間ずっと
蜥蜴たちは熱気の中
泣きながら横たわっていた
 
誰に会うべきかを思い出しながら
僕は小狡い態度を取ろうとした
その間に
数万人もの人たちが理解した
僕には需要があると
 
あなたが僕とR&Rするとき
僕は他の誰でもなく
僕自身でありたいと願う
だがここにいる誰も
それを僕に許してはくれない
だから僕はまた涙する
あなたが僕とR&Rするとき
 
優しい心を持った人たちは今や絶滅寸前
行列は果てしなく長く静かに続く
僕はと言えば息も絶え絶え
でも完全に信じてないわけじゃない
僕はすでに
自分を外に連れ出すドアを見つけているからだ
 
あなたが僕とR&Rするとき
僕は他の誰でもなく
僕自身でありたいと願う
だがここにいる誰一人として
それを僕に許さない
だから僕はまた涙する
あなたが僕とR&Rするとき
 
 
 
 
タイトルは若干似ているが、この曲はクイーンの”We Will Rock You”とは真逆の悲痛な歌詞。

「完全に疑っているわけじゃない(not quite doubting)」とか「僕はすでに自分を外に連れ出すドアを見つけている」などと歌ってはいるものの、このDiamond Dogs時代(1974年)、ボウイは自分のロックコンサートに集う観客というもの、そしてロックという音楽そのものに関して心底絶望していたのかもしれない。

この歌詞には"A room to rent while the lizards lay crying in the heat"という印象的なラインがある。「何で貸部屋にトカゲが出てきちゃったの(しかも熱気の中で何匹も泣きながら横たわってるって?!)」と戸惑うが、これはシュルレアリスム詩の作成技法であるデペイズマン(dépaysement)の適用結果であり、同技法は特にアルバム「Diamond Dogs」で顕著だが、ボウイの歌詞全般でも駆使されており、さほど珍しいものでもない。

この歌詞を改めて熟読して最も重要だと思われたのが"Nobody here can do it for me"というラインだ。上記では日本語として成立させるために「ここにいる誰もそれを僕に許してくれない」と訳したが、これは直訳では「ここにいる誰もそれを僕のためにすることができない」となる。「それ」が「R&R」だとすると、「ここにいる誰も僕のためにR&Rできない」とも解釈できる。つまり、驚くべきことに、
「僕」は<今・ここ>(例:コンサート会場)にいる誰一人として自分とはR&Rできていないことを仄めかしているのだ。

では逆に、僕とR&Rできるあなた(You who can rock'n'roll with me)」とは誰のことか?それは、コンサート会場に押し寄せ<今・ここ>を「僕」と共有している(かのように見える)観客では決してないのだから、<今・ここ>には不在のあなた」のことではないか。すなわち、<今・ここ>には不在のあなた」(二人称の現前不在者)が僕とR&Rするときにのみ、僕は僕自身でいられる。二人称の現前不在者は死者であるとは限らない。まさに今ここ(コンサートが行われている会場)には存在していない「僕とR&Rできるあなた」とは、実は彼のレコードの「聴き手」のことではないか。

こう考えると、コンサートの観客に絶望したボウイは、彼と非同期にR&Rできる彼のレコードのリスナー(二人称の現前不在者)に一縷の望みを託したのではないかと思えてくる。