私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

ジミー・クリフ訳詞『Many rivers to cross』:時にはいっそ 恐るべき犯罪に手を初めてしまおうかと考えることすらある

渡るべき河は幾多あれど
その彼方にあるべき「我が道」を見つけられない

方々(ほうぼう)をさすらい歩き
完全に道を見失っている
あの白い崖に沿ってドーバー海峡を渡るたびに
そのことを身に染みて感じる

イメージ 1
(上記写真はhttps://en.wikipedia.org/wiki/White_Cliffs_of_Doverより引用)

渡るべき河は幾多あれど
自分の意志だけを頼りにこれまで生きてきた
何年にもわたって
打ちのめされボロボロになったのに
それでも自殺しなかったのは
私が辛うじて自尊心を持ちえていたからだ

今まさに私が感じているこの孤独感
それは今後もずっと私に付き纏うだろう

一人ぼっちでいることがこんなに辛いものだとは
体験してみなければ分かるはずもない
かつて一緒に暮らした女もいたが
彼女は何の理由も告げずに私の元を去った
多分私は挑まなければならないのだろう

私には渡るべき幾多の河がある
だが一体どこから始めれば良いというのか?
それすらも分からず
ただただ無為に時間をやり過ごしている
時にはいっそ
恐るべき犯罪に手を初めてしまおうかと
考えることすらある


渡るべき河は幾多あれど
その彼方にあるはずの「我が道」を見つけられない
方々(ほうぼう)をさすらい歩くうちに
道に迷ってしまった
白い崖(注)に沿ってドーバー海峡を渡る際
そのことを強く感じる
渡るべき河は幾多あれど
自分の意志だけを頼りにこれまで生きてきた

原詩:http://www.azlyrics.com/lyrics/jimmycliff/manyriverstocross.html

注:"White Cliffs"という名称を聞いて、黒人(Black)であるCliff氏は「もし自分が白人だったら」という思いを抱いたかもしれない。

<<訳詞解説>>
"This loneliness won't leave me alone"は、オーティス・レディングの"Dock of the bay"(1968年)とジミー・クリフ"Many rivers to cross"(1969年)で共通しているラインだ。直訳だと「この孤独が私を一人ぼっちにすることは今後もないだろう」となるが、孤独とはそもそも「一人ぼっちであること」として定義されるのだから、この言い方はちょいとシャレている。陳腐な日本語だと「これからもずっと、孤独だけが私の友達」に近いのかもしれない。

オーティスの(彼の死の直前にレコーディングされたという)"Dock of the bay"では、詞の語り手である放浪者(ホームレス?)の黒人男性は、サンフランシスコ湾の桟橋を寝ぐらと決め込み、何をするでもなくぼんやりと時間を無駄に費やしているだけだ。これに対して、ジミー・クリフの本曲では、詞の語り手である(おそらくはジャマイカからイギリスに移り住んだ)移民の黒人男性(この境遇はジミー・クリフ自身に重なる)は、困窮し道に迷い途方に暮れ思い悩みオンナにも逃げられ孤独感に苛まれ無為に時間をやり過ごしつつも、このままではいつか自分が「凶悪な犯罪を犯してしまうかもしれない」ことを恐れている。

(いつだったか、テレビ東京の番組『出没!アド街ック天国』の平井(東京の地名)特集の回で、隅田川だか江戸川だかをバックにしてジミー・クリフのこの曲がBGMとして流れたのだが、この曲の歌詞は『川の流れのように』のような人生応援歌とは真逆なのだ)。

これがさらに時代を下ってボブ・マーレイになると、怒れる生活困窮者はもはや無為に時間を過ごすことなどなく、その思想や行動は過激化する。

いくつ河を渡ればボスと話せるのか?
我々は得たものをすべて失った
我々は実際にコストを支払った
だから今夜
我々は焼き討ちと略奪を決行する
(Burnin' & Lootin'、1973年、原詩:http://www.azlyrics.com/lyrics/bobmarley/burninandlootin.html

ゆんべは冷やっこい地べたがおらの寝床で
硬い岩がおらの枕やった
(中略)
おら お天道さんをじっと見つめるだ
そしておらの目ん中で日の光さ輝かせるだ
そんでおら もう一歩踏み出すだ
なんでかっつうと
今おらは猛烈に教会さ爆破してぇ気になっとるからや
おめも知っとるべや
あの牧師が嘘ついとるっちゅうこと
自由の戦士たちが戦うとる時に
誰が家でじっとしていらりょうか
(Talking' Blues、1974年、原詩:http://www.azlyrics.com/lyrics/bobmarley/talkinblues.html

いずれの歌詞においても、現在の悲惨な状況を打破するための解決策は一切示されていない。なぜなら解決策などないからだ。宗教(への入信)は解決策にはならない。なぜならこれらの怒れる孤独な生活困窮者たちは宗教それ自体を唾棄対象ないし攻撃対象としているからだ(「I feel like bombin' a church(私は教会を爆破したい気分だ)」)。

2017年現在の日本社会も、凶悪な犯罪に走るかもしれない孤独で無気力な生活困窮者を男性女性を問わず大量に作り出しており、その解決策はまだない。

ジミー・クリフ訳詞『Bongo Man』:梵語萬来れり。来よ。来よ。

梵語萬(ボンゴマン)来(きた)れり
来よ 来よ
梵語萬来れり
来よ 来よ


夜明けの遥か前に
我警告を発せり
皆準備は良いか
今ここに梵語萬在りて
我と我(I&I)はザイオンへと向かう

政治家や教会のお偉方に従う者よ
お前たちが来ることは決してない

原詩:https://www.jah-lyrics.com/song/jimmy-cliff-bongo-man

CD『The Best of Jimmiy Cliff』(1995年版)に添付されていた解説(“Black Music”誌のCarl Gayle著)によれば、ジミー・クリフイスラム教に入信したのは1970年代初めのことらしい。したがって、本曲が収録されているアルバム『Give Thankx』のリリース時(1978年)には、クリフ氏はすでにイスラム教徒であったことになる。クリフ氏の長いキャリアの中で、彼がこのようなモロに「ジャー・ラスタファーライ」信仰をベースとした歌詞を歌うのはあまり例がない。クリフ氏が発表した曲をすべて把握している訳ではないが、彼が「アイ・アンド・アイ(I&I)」や「ザイオン(Zion)」と歌唱する曲はもしかしてこれが唯一ではないか。

本ビデオの「5:35」時点でジミー・クリフが「ジャー・ラスタファーライ!」とシャウトする映像を見ることができる。

ジミー・クリフラスタファリアンではなくイスラム教徒である」という情報を私が初めて知ったのはいつだったか?はっきりとは憶えていないが、多分アルバム『Give Thankx』がリリースされた時点ではそのことを既に知っていたように思う。ただし、このような個人的な情報がマスコミに公開されたのは、ジミー・クリフは実は「偽ラスタ(fake rasta)」であるという印象を聴き手に与えようとする、クリフ氏に対するネガティブキャンペーン派のしわざであった可能性もある。

だが、イスラム教徒であるならば「ジャー・ラスタファーライ」を賛美してはならず、「アラーは偉大なり」と歌わなければならない、などという道理はない。ジミー・クリフ個人がイスラム教徒であろうが◯◯学会の会員であろうが、そのような個人的な属性情報は、クリフ氏に帰せられる偉大なるシンガーとしての才能や業績をいささかも毀損するものではない。
歌い出しのボーカルは「ボンゴーマンハズコォーム。コォーム。コム」と聴こえる。
”Bongo man has come”に続く"come, come"を「来よ、来よ」と訳したのは、これが『ヨハネの黙示録』からの引用のように思われたからだ
また、私は見た。小羊が七つの封印の一つを解いたとき、四つの生き物の一つが、雷のような声で「来なさい。」と言うのを私は聞いた。
ジャー・ラスタファーライ信仰とヨハネ黙示録の関係については良く知らないのだが、現在、次のような文書が翻訳で入手できるようだ。
また、こんな和書もある。
「レゲエという実践: ラスタファーライの文化人類学」(https://www.amazon.co.jp/dp/4814000871/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_SAj7ybNDCJ5X6)

また、今ではマーカス・ガーベイ関連の文書もいくつか入手可能なようだ。
「Marcus Garvey: Ultimate Collection of Speeches and Poems」(https://www.amazon.co.jp/dp/B01DS4O1F4/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_hDk7ybHXS3MCR
イスラム教と黒人の歴史的な関係については、マルコムX関連の文献も参考になるかもしれない。
「完訳マルコムX自伝(上)」(
https://www.amazon.co.jp/dp/4122039975/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_yFk7ybFSHHKVN

前述のCD『The Best of Jimmiy Cliff』に添付されていた解説によれば、ジミー・クリフはアイランドレーベル在籍時代にはヒットに恵まれず苦悩しており、それが彼のイスラム教入信の理由となったのではないかとのこと。また、
映画「The Harder They Come」(1972年公開)はジャマイカではヒットしたものの、アメリカやイギリスではカルトムービー扱いであり、クリフ氏は金銭的にずっと苦しい状態だったという。だがこれらの情報の多くは、クリフ氏本人のインタビューには基づいておらず、アイランド・レーベルの社長(クリス・ブラックウェル)や当時のミュージシャン仲間(デルロイ・ワシントン)による証言のみに基づいた推測に過ぎない。

私が映画「The Harder They Come」を宮崎市の映画館で見たのは1979年頃であり、なんと日本映画「限りなく透明に近いブルー」との2本立てだった。おそらくマリワナ括りで一緒にされてしまったのだろう。キリスト教の教会でクリフ氏が歌唱するシーンがあったようにも思うが、どんな映画だったかほとんど記憶にない。

この曲が収録されているLP『Give Thankx』は、高校生の時に友人のZ君の自宅のステレオで初めて聴いたと思うが、記憶に残っているのは唯一この曲だけであり、他の曲は全く印象にない。今調べたら、聴き手に強烈な印象を残すこのナイヤビンギ(Nyahbinghi)ドラムは本家本元の"Ras Michael & The Sons Of Negus"による演奏であり、コーラスはMeditationsだ。

備考:アルバム『Give Thankx』(1978年)に収録されている"Bongo man"はリメイク版であり、オリジナルは「Bongo man (a come)」というタイトルで1971年頃にシングル(ジャマイカのみ?)でリリースされ、1973年にIsland Musicにより著作権登録された曲のようだ。オリジナル版はリメイク版とは歌詞が異なっており、"I&I"も"Zion"も登場しない(http://www.azlyrics.com/lyrics/jimmycliff/bongoman.html)。

改訂版ボウイ訳詞『Beauty and the Beast』:野獣から美女への求婚か、それとも美女から野獣への求婚か、それが問題だ。自己から自我への一方的な求愛は実りある対話を生成しないのでは?

鼻歌まじりにふらふらと
つい脇道を通ったこと
それが私にとっての
堕落へと向かう一本道(の始まり)だった…

おやおや?驚いたかい?

せめて少しは微笑んでくれ
美女と野獣(の「結婚」)に反対することは
きみにはできないのだから

昼間のナニカ
夜中のナニカ
陽と陰/善と悪/美と醜/正と負がそのように整然と分かたれている間は
何も問題はなさげだが
実はその裏では
ナニカとてつもなくやばいことが確実に進行中なのだ
遅かれ早かれ
大虐殺の匂いが漂い
抗議の声が風に乗る

私の中にいる誰か
その誰かは皮をひっぺがされて
肉が剥き出しになっている(しかしまたどうやって?)

誰か神父さんを連れて来い!

美女と野獣(の結婚)には
何人たりとも反対できないのだよ
分かったかね?愛しい人よ

ええ、知ってたわ
美女と野獣(の結婚)には
あなたも反対できないのよね
この弱虫さん

信じて欲しかったの僕
ただただ良くありたかったの僕
気晴らしなど求めていなかったの僕
すべての良い男の子がそうであるがごとく

[だが結局、美女と野獣は惹かれ合い、
聖職者立ち会いの上で、
とうとう両者は結婚した]

今やもう
私達を汚すものは何もなく
私達に敵うものは何もない
(つまり私達は無敵だ!)

天国の神様どうもありがとう
私達を自分の足で立たせてくれて

あらまぁ、なんてこと?
これってまさに
美女と野獣」(というお話の結末)じゃない?

美女と野獣(の結婚)に対しては
あなたも絶対逆らえない

美女と野獣」(という話の結末)に対しては
あなたも嫌(いや)とは言えやしない

原詩:http://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/beautyandthebeast.html

ボウイ訳詞『Beauty and the Beast』:やまい、やるまい、やらせまい、誰か坊(ぼん)さん連れて来い。誰にも(主張している本人にさえも)理解できない「美女と野獣」理論の全貌が今ここに!

鼻歌まじりにふらふらと
つい脇道へと足を進めてしまったこと
それがまさに
僕にとって

堕落への一本道の始まりでした

(・・・気まずい沈黙・・・)

あれっ?やだなぁ、もう
ちょっとは笑ってくださいよ
ここ笑うとこなんですから
まぁでも僕が今から説明する

美女と野獣理論
それを否定することは
あなたには絶対できませんからね

いいですか

何人たりとも
美女と野獣「結婚」
反対することはできないんです

昼間のナニカ
夜中のナニカ
陽と陰/善と悪/美と醜/正と負がそのように整然と分かたれている間は
何も問題はなさげに見えるのだが
実はその裏では
ナニカとてつもなくやばいことが確実に進行中なのだ
遅かれ早かれ
大虐殺の匂いが漂い
抗議の声が風に乗る

僕の中にいるダレカ
そのダレカは皮をひっぺがされて
肉が剥き出しになっている(しかしまたどうやって?)


あぁ誰か早く!誰かお坊さんを連れて来て!

今ここにおいて
(聖職者立ち会いの上で)
美女と野獣は結婚したことを宣言します!

美女と野獣が結婚し
いずれお互いに深く愛し合うようになること
それを止めることは誰にもできないんです

(どこからか「この身体虚弱者め!」という声が聞こえる)


信じて欲しかったの僕

ただただ良くありたかったの僕
気晴らしなど求めていなかったの僕

すべてのよゐこがそうであるがごとく

[だが結局、美女(==僕)は野獣(==内なる獣)に惹かれ
とうとう両者は結婚した]

今やもう
僕等を汚すものは何もなく
僕等に敵うものは何もない
(つまり僕等は無敵だ!)

神サマ、ドモアリガト

ボクラヲ自分ノ足デ立タセテクレテ


ね、まるで「びじょとやじゅう」でしょ?
ぼくら「びじょとやじゅう」(のケッコン)にたいしては
アナタモゼッタイサカラエナイ

びじょとやじゅう(のケッコン)にたいしては
アナタモイヤトハイエヤシナイ


原詩:http://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/beautyandthebeast.html

ディラン訳詞『The Man In Me』:私の中にいるあのオトコと話をつけるには、きみのようなオンナが要る

僕の中にいるあのオトコは
大抵のことは何でもやってくれる
だけどその見返りとして
アイツが要求するものがある
早い話が
僕の中にいるあのオトコと話をつけるには
きみのようなオンナが要るのさ

不吉な暗雲が僕んちのドアの周りで荒れ狂っている
僕はもうこれ以上耐えられないので
この嫌なシゴトをアイツにやらせようと思う
だけど僕の中にいるあのオトコを見つけ出すには
きみのような種類(タイプ)のオンナが必要なんだ

僕の中にいるあのオトコは時々どこかに隠れてしまう
おそらくアイツは
自分がなんらかのマシーンにされてしまうのを嫌がっているんだ

僕の中にいるそんなオトコと話をつけるには
きみのようなオンナが要る

原詩:http://www.azlyrics.com/lyrics/bobdylan/themaninme.html

この詩の背景にはアメリカの徴兵制があると思われる。今ではどうだか分からぬが、1960年代の欧米諸国において、(当時萌芽しつつあった、それまでに無い、ある独特なタイプの)ロック音楽(ボブ・ディランの作品を含む)を好むような若い男性が最も忌み嫌う「オトコのシゴト」の代表例、それが兵役だったと思われる。兵役を務めなければならない状況に追い込まれた場合に、「オトコらしくあること」に関して肯定的な価値をどうしても見出せない男の子は、もしかしたら自分の中に棲んでいるかもしれない「オトコらしいオトコ」を見つけ出し、そいつと話をつけることで、その嫌な仕事を自分の代わりにやってもらうことができたならば、どんなに楽かと想像するのだ。

なお、「自分の中にいる(自分とは別のもう1人の)男と話をつける」という言い方には論理的矛盾が含まれている。自分の中に別の男がいるのなら、{自分の中の男}の中にもまた別の男がいるはずであり、したがって{{自分の中の男}の中の男}の中にもまた別の男がいる...ということになるため、「自分の中の男と話をつけ」ようとすると、どこまで行っても終わらない無限ループに陥ってしまう。このループから抜け出す最も簡単な方法が、ループの反復回数の上限である正の整数nを、同ループからの脱出条件として明示的に指定することだ。だが、そのような正の整数を指定することには、計算リソースの節約という名目的な理由以外には何の根拠も必然性もありはしない。計算リソースが無限であるとするならば、永久にループを続けても構わないではないか。

マトゥンビ(Matumbi)訳詞『RocK』:岩よ、揺れよ、だが我(I)には落ちるな

岩よ、揺れよ
だが我(I)には落ちるな

岩よ、揺れよ
揺れて転がり落ちよ
だが我の上には落ちるな
おお、岩よ
揺れて崩れ落ちよ
だが我の上には落ちてくれるな


Rock, rock, don't you fall on I
Rock, rock, don't you fall on I
Oh Rock
Don't you fall on I

父なる神が生命の書を紐解くために
七つの封印を開くことを決めたとき
地上のすべての邪悪者よ
警告を受け入れるがよい
なぜなら我と我(I&I)の予言がすべて現実となるからだ

When the Father decides to open
Open  up the book of life
And to loose those seven seals
All wicked men on earth take warning
For what I and I say is real

岩よ、圧制者(という名の岩)よ、揺れよ
だが我には落ちるな
岩よ、圧制者(という名の岩)よ、揺れよ
揺れて転がり落ちよ
だが我の上には落ちるな
おお、岩よ
揺れて崩れ落ちよ
だが我の上には落ちてくれるな


Say you can rock, but don't you fall on I
Yes, you can rock, but don't you fall on I
Rock, oppressor rock, but don't you fall on I
Rock, oppressor rock, but don't you fall on I
Oh rock
But don't you fall on I

今まさにこの地上に存在する
アフリカの圧制者たちよ
直ちに我が人民を解放せよ
そして特にソウェトの圧制者たちよ
直ちに我が人民を解放せよ

Oppressor down there
Down there in Africa
Let my people go
Especially down in Soweto I say
Set my people free

おお、岩よ、どうかやめてくれ
おお、岩よ、私の上には落ちないでくれ
どうかそれだけはやめてくれ
おお、岩よ、なぜお前は私の上に落ちようとするのか


Oh rock, you shouldn't do that
Oh rock, don't you fall on I
should never do that
Why you fall on I

汝、彼揺るるを許さば、必ずや彼、汝の上に落ちんとす
汝、彼揺るるを許さば、必ずや彼、汝の上に落ちんとす
彼揺るるを許すべからず
彼揺るるを許すべからず

If you low im fi rock, im will fall on you*
If you low im fi rock, im will fall on you*
Do no low im fi rock, no low im fi rock*

*注: これらの行のみが、いわゆるPatoisで書かれている。(パトワ==ジャマイカクレオール言語。ただし厳密に言えば、MatumbiやLKJがその歌詞で使用している言語はパトワではなく、標準的な英語の単なるポストコロニアル版でもないらしい(出典:書籍『Mi Revalueshanary Fren』の前書き(http://goo.gl/TQl0kU))。通常の英語で書き下すと、この部分は次のようになる。

If you allow him to rock, he will fall on you
Do not allow him to rock, don't allow him to rock


上記の"low"、"im"、"fe"などの意味に関しては『Rasta/Patois Dictionary』http://niceup.com/patois.htmlを参照されたい。


岩よ、揺れよ
岩よ、岩よ

Rock, rock
Rock, rock

注:この訳詞は私がずいぶん前にとあるブログのコメント欄(http://alga.moe-nifty.com/xor/2010/08/1-1-f168.html)に投稿したものに基づいている。なお、当時は気づいていなかったが、今思えば、この詩の独自性は「岩=神=まったき他者」という主張にあると感じる。それはつまり、「汝、岩に神性を感じるのは構わぬが、岩を「汝」としてではなく「それ」として認識し、「それ」に対して気安く呼びかけることなかれ。ましてや自分に都合の良いように「それ」を利用しようと試みることなかれ」という主張ではないか。言い換えれば、その岩なら岩(他者)をまずは「まったき他者」としてリスペクトせよ、ということであり、その岩なら岩(他者)を、自らの思考や操作の対象(客体==客観的事物)にはなり得ない「主体(主観)としての他者」としてリスペクトせよ、という強いメッセージではないか。

本ブログ記事では今後、「自己(self)」と「自我(ego)」を明確に区別することにしたい。自己とは客体(それに対する制御や操作が可能となる客観的事物)としての自分自身のことである、と定義しよう。これに対して、自我とは「いかなる意味でも客体にはなり得ない主体(主観)」のことであり、それは原理的に「自己==誰にでも妥当する客観的な自分自身」による思考の対象とはなりえないものである、と定義しよう。思考対象として捕まえようとするとスルリと逃げる、本質的にevasiveかつelusiveな主体こそが自我である、としよう。つまり、自我とは「まったき他者」である。これに対して「自己」は十分には他者でない。たとえば、人は「自己反省」はできるが「自我反省」はできない。人は鏡に写った自己の像を眺めることはできる。だが、自我は、いくら合わせ鏡(高性能のカメラやビデオ機器)を駆使したとしても決して明確な像を結ぶことがないため、反省(振り返り)の対象とはならない。

今後は、以上の定義を踏まえて、自我を自己の「内なる獣」(the beast inside)として捉えることは正当だろうか、について検討したい。


ボウイ訳詞(創作訳)『Five Years』:泣こうが喚こうが、人類に残された時間はあと5年だ

マーケット広場を通り抜けたとき
大勢のおっ母さんたちの嘆息が聞こえた気がした
みんなあのニュースを聞いてしまったんだ
泣こうが喚こうが
人類に残された時間は
あと5年しかないってことを

テレビでは
古舘伊知郎が嗚咽しながら
「地球はもはや死に瀕しています」
とか言ってた
涙と鼻水でぐっちょぐちょになった彼の顔を見て
彼の言うことも
今回だけは
まんざら嘘じゃないかもと僕は思った

そこで僕は
自分がこれまで耳にした音
(電話の発信音、着信音、保留音、オペラハウスの喧騒、大好きなメロディ…)
そして自分がこれまでに目にした人やモノ
(美しい男の子たち、カワイイオモチャたち、電気アイロン、テレビ受像機…)
それらのすべてを
片っ端から
自分の脳裏に刻み込もうとした

すると悲しいかな
容量の小さい僕の脳味噌は
まるで立錐の余地なくガラクタを詰め込まれた
量販店の倉庫みたいに
キリキリと痛んだ

だがその時
僕はなぜか急に
まずはありとあらゆる人を
僕の脳味噌に詰め込まなければならないと切実に感じた

おデブもガリガリ
ノッポもチビ助も
有名人も無名人も
みんなみんなみんなみんな
すべての人を僕の脳裏に刻み込まなければならないと感じたのだ

こんなにも多くの人を自分が必要としているなんて
僕はこれまで考えたこともなかった

片腕の折れた兵隊が
キャデラックのホイールを
じっと見つめていた


頭のイカれた若い女
ちっちゃな子供たちに突如襲いかかった
側にいた黒人が止めに入らなかったとしたら
その女は
子供たちを全員殺していたかもしれない

お巡りがひざまずいて
坊主の足に接吻した
それ見てオカマはゲロ吐いた

僕は
とあるアイスクリーム・パーラーのテラス席できみを見かけた
きみは寒風吹きすさぶ中
背の高いグラスに入ったミルクセーキ
ゆっくと飲んでいた
きみは笑いながら手を振ってて
そりゃあもうドキッとするほど
本当に素敵だった

今僕がまさに歌っている
この曲の中に
きみ自身が登場することを
きみはその時点ですでに知っていた
とは思わない

寒かった
雨が降っていた
まるで役者のように感じた
母のことを思い出し
母のもとに戻りたいと思った

思い浮かんだのは
あなたの顔
あなたの人生(*注)
あなたの話し方
あなたに接吻する
あなたは美しい

立ち上がって
また昔のように
自分の足で
歩いてほしい

原詩はこちら:http://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/fiveyears.html

<<2017年5月30日付記>>(*注)の部分は、以前は「あなたの颯爽とした歩き方」と訳していましたが、"one's race is run"というイディオム(「誰々は死ぬ」の婉曲的表現)があることを知り、上記のように改訳しました。