私はその類(たぐい)ではない

「数」とは何か、そしてそれはどうあるべきか

ボウイ訳詞『"Heroes"』:ぼくらのあたまのうえで どんぱちがはじまった そして ぼくらは せっぷんした … たった いちにちだけだけど

【壱】

、ぼくは
しょうらい
さまに
なるんだな

そして
き、きみは
しょうら
じょおうさまに
なるんだな

これからさきもずっと
やつらをおいはらうすべは
なにもないんだな

だからこそ
ぼくらはやつらを
だしぬくことができるんだな

いちにちだけだけど

ぼくらは
ひ、ひぃろぉになれるんだな

たったいちにちだけだけど


【弐】

き、きみはときどき
いじわるになるんだな

そして
ぼ、ぼくは
しろくじちゅう
お、おさけをのんでるんだな

だって

、ぼ、ぼくらは
こ、こいびとどしだからな
そしてそれは
ほ、ほんとのはなしなんだな

ぼ、ぼ、ぼくらは
こ、こびとどうしなんだな
そしてそれは
た、ただそれだけのはなしなんだな


このさきずっと
ぼ、ぼ、ぼくらをひとつにむすびつけるものは
なにひとつないんだな
だからこそ
ぼ、ぼ、ぼくらは
ときをぬすむことができるんだな

いちにちだけだけど

ぼ、ぼ、ぼくらは
ひ、ひ、ひぃろぉになれるんだな
こ、これからさきもずうっと


【参】

、ぼくはきみが
お、およげればよかったのにとおもんだな
、い、いるかみたいに
い、い、いるかがおよぐみたいに


このさきずっと
ぼ、ぼ、ぼくらをひとつにむすびつけるものは
なにひとつないんだな
だからこそ
ぼ、ぼ、ぼくらは
やつらにひとあわふかせることができるんだな
これからさきもずうっと


ぼ、ぼ、ぼくらは
ひ、ひ、ひぃろぉになれるんだな

いちにちだけだけど

 

【肆】

ぼくは
おぼえている(おぼえてる)

ぼくらが
あの
かべのそばにたっていると(あのかべのそば)

ぼくらのあたまのうえで
どんぱちがはじまった(あたまのうえ)

そして
ぼくらは
せっぷんした

まるで
なにも
おちてこないかのように(なにもおちてこない)

 

【伍】

そして
あの
はずべきこうい
    ― あのおそるべき
        ざんぎゃくこうい ー

をしらずしらずのうちに

あるいはみずからのぞんで

おこしてしまったという

あの

ざいあくかんは
    ― こっちがわにじゃなくて
         かんぜんに  ー
あっちがわ

にあったんだな

だからこそ
ぼくらは
やつらを
ねじふせることができるんだな
これからさきもずっと

そして
ぼ、ぼ、ぼくらは
ひ、ひ、ひぃろぉになれるんだな

いちにちだけだけど

 

【陸】

、ぼ、ぼくらは
なにものでもない
くずどぜんの
ちっぽけな
そんざなんだな
そして
なにも
ぼくらの
たすけにはならない
たぶん
くらは
そをついて
なので
きみたちは
ぼくらのいうことに
みみをかす
ひつようはないんだな
でも
くらにとっては
そのほがずっとありがたんだな

いちにちだけだけど

 たった

いちにちだけだけど

 

 

ボウイ訳詞(創作訳)『Soul Love』:そして愛とは「愛さないこと」である

石の愛(何も生まない愛)墓の前にひざまずく女の息子が自分の命をかけて守ったスローガンが空中に浮き上がり停止するその場所とは墓石と母の両目との間にある空虚なるがゆえにそれらは母の深き悲しみを刺し貫く

 

新たなる愛、少年と少女が語り合う新たなる言葉を彼らだけが分かち合える新たなる言葉で愛はあまりにも強く彼らの心を引き裂き眠りにつく朝のつかの間の時間を通じて

 

愛はその選択に関しては無頓着であり十字架をも赤子をも圧倒する愛はこれらの無防備な者どもに襲いかかる白痴の愛が融合に火をつけるだろう霊感など一切持ち合わせていない私にできるのはただこの燃え盛る鳩に触れることだけ私が持ちうるすべてのものは我が「愛への愛」のみそして愛とは「愛さないこと」である

 

魂の愛 、その言葉を味わう聖職者は愛について語った「高きにおわす我が神がいかにしてすべての愛となるか、だが手を伸ばそうとすると逆に我が孤独は募る、神を取り巻く盲目性によって」

 

愛はその選択に関しては無頓着であり

十字架をも赤子をも圧倒する

愛はこれらの無防備な者どもに襲いかかる

白痴の愛こそが融合の火付け役となるだろう

霊感など一切持ち合わせていない私にできるのはただこの燃え盛る鳩に触れることだけ

私が持ちうるすべてのものは我が「愛への愛」のみ

そして愛とは「愛さないこと」である

 

原詩:https://genius.com/David-bowie-soul-love-lyrics 

 

f:id:ImNotThatKind:20200325013511j:plain

 

 

改定版・Roxy Music訳詞『Always Unknowing』:逃避行中の二人・すれ違う会話・人間にとって「いつだって何も知らない・分からない」ものの一つが「他人の心」だ


明けの明星を追って東へと向かおう
 
「だけど、絶えず逃げ回ることに意味はないわ」
 
必要なものを全部持って出発しよう
 
「ちょっと待って、少しは私に時間をちょうだい」
 
いつだって
何も知らない
 
世界が汝を通り過ぎんことを!
 
「世界は、まさにそうやって動いていくものよ」
 
いつだって
何も知らない

私の側を離れないでくれ

「絶えず逃げ回ることに意味はないわ」

もう一度だけ私にチャンスをくれ、それだけが私の望みだ
 
いつだって
何も知らない
 
どうかこの夜を止めてくれ
君のため息で
 
いつだって
何も知らない

 
Web上に流布している”Always Unknowing”の歌詞は実は正しくない。正しい歌詞は、今野雄二氏の著書『ブライアン・フェリー詩集 アヴァロンの彼方へ』(シンコー・ミュージック刊、1987年)に掲載されているものの方だ、ということに気付いた。
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正しい(と思われる)聞き取りが世の人々の役に立つように、以下にテキストで書き下しておく(赤字部分が流布版と異なっている箇所)

Follow the morning star
But there´s no sense
In always running
Take what you want and go
Just give me time
Always unknowing

World pass you by
That's how it goes
Always unknowing

Don't you leave my side
There is no sense
In always running
Just one more time
Is all I need
Always unknowing

Hold back the night
With your sigh

Always unknowing
なお、太字にした"sigh"は、『詩集』では"sighs"と複数で記載されているが、どうやら複数ではなく単数の"sigh"に聴こえることを発見したので修正してある。

「本当」の歌詞を検証するために、フリーソフトSoundEngineを使って、同曲のWavファイルをかなり遅めの速度で波形を表示しつつ再生させてみた。

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その結果、問題のライン(流布版で"Hold back tonight / With your sight"と記述されている行)の最後の単語は、"sight"ではなく"sigh"と歌われていることがほぼ確実だと思われた。難しいのは"Hold back xxxt"の部分で、これが"tonight"なのかそれとも"the night"なのか、私の耳では何回聞いても判然としない。スピードを落とし、音量を上げても、この部分だけは曖昧で判然としない。つまり、結局のところ、はっきりしたことは分からない。

私は今、自分が映画『Blow UP(邦題:欲望)』のカメラマンか、映画『ミッドナイト・クロス(原題:Blow OUT)』の音響効果技師になったような気がしている。
 
Blow UPの主人公であるカメラマンは、自分が偶然撮った写真から「真実」を知ろうとして、その写真をどんどんズームアップしていく。しかし、写真に写った画像は拡大を続けると、そのオリジナルの解像度の限界に達した時点で、どれも互いに区別できない点の集合になる。
 
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Blow OUTの主人公である音響効果技師は、自分が偶然録音した音源から自動車のタイヤのパンク音と拳銃の発砲音を区別しようとして、その音源を徹底的に解析する(そして映画では運良くそれに成功する!)。しかし現実には、録音された似たような音を区別するために、それらを数値的に無限に解析することはできない。写真の画像拡大の場合と同じく、オリジナルの音源の分解能に達した時点で、それらの音声データは互いに区別がつかない状態になるからだ。

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なお、この詩の冒頭の"Follow the morning star"を訳すにあたっては、以下の小説のタイトルがヒントになった。

 
しかしそもそも、「明けの明星を追う」という出だしの時点で、この詩の舞台は現代ではないと気付くべきだ。また、この詩のテーマは「何らかの理由で逃避行中の二人(の男女?)のすれ違う会話」だと思われる(男女2人の逃避行と言えば、ナボコフの『ロリータ』を連想させもする)。だが、別に二人ではなくとも三人以上の異なる話者(人格)が発するポリフォニー的な会話のコラージュと捉えることも可能だ

そして一番重要なのが、結局ここでの(人間が)「常に無知である(いつだって何も知らない・分からない)」ものとは一体何なのか?ということだ。この問いに答えられないならば’、この訳詞(妄想訳!)は失敗である。

人間が常に無知であるものとは何か?
その答えの一つが「他人の心」だ。
 
男にとって「女の心」ほど不可解なものはないなどとよく(?)言われるが、別に男や女に限らず、人間にとって「他人の心」ほど分からないものはない。

ボウイ訳詞『Rock 'n Roll With Me』:ロックスターの悲痛な叫び - 1974年当時、ボウイは自分のコンサートに集う観客に対して心底絶望していたのかもしれない

あなたはいつも事情通の一人だった
だから彼らはあなたのような人たちに
僕らを売り込んだ
僕はと言えば常に新しい環境を求めていた
たとえばどこかに部屋を一つ借りるとかして
 
その間ずっと
蜥蜴たちは熱気の中
泣きながら横たわっていた
 
誰に会うべきかを思い出しながら
僕は小狡い態度を取ろうとした
その間に
数万人もの人たちが理解した
僕には需要があると
 
あなたが僕とR&Rするとき
僕は他の誰でもなく
僕自身でありたいと願う
だがここにいる誰も
それを僕に許してはくれない
だから僕はまた涙する
あなたが僕とR&Rするとき
 
優しい心を持った人たちは今や絶滅寸前
行列は果てしなく長く静かに続く
僕はと言えば息も絶え絶え
でも完全に信じてないわけじゃない
僕はすでに
自分を外に連れ出すドアを見つけているからだ
 
あなたが僕とR&Rするとき
僕は他の誰でもなく
僕自身でありたいと願う
だがここにいる誰一人として
それを僕に許さない
だから僕はまた涙する
あなたが僕とR&Rするとき
 
 
 
 
タイトルは若干似ているが、この曲はクイーンの”We Will Rock You”とは真逆の悲痛な歌詞。

「完全に疑っているわけじゃない(not quite doubting)」とか「僕はすでに自分を外に連れ出すドアを見つけている」などと歌ってはいるものの、このDiamond Dogs時代(1974年)、ボウイは自分のロックコンサートに集う観客というもの、そしてロックという音楽そのものに関して心底絶望していたのかもしれない。

この歌詞には"A room to rent while the lizards lay crying in the heat"という印象的なラインがある。「何で貸部屋にトカゲが出てきちゃったの(しかも熱気の中で何匹も泣きながら横たわってるって?!)」と戸惑うが、これはシュルレアリスム詩の作成技法であるデペイズマン(dépaysement)の適用結果であり、同技法は特にアルバム「Diamond Dogs」で顕著だが、ボウイの歌詞全般でも駆使されており、さほど珍しいものでもない。

この歌詞を改めて熟読して最も重要だと思われたのが"Nobody here can do it for me"というラインだ。上記では日本語として成立させるために「ここにいる誰もそれを僕に許してくれない」と訳したが、これは直訳では「ここにいる誰もそれを僕のためにすることができない」となる。「それ」が「R&R」だとすると、「ここにいる誰も僕のためにR&Rできない」とも解釈できる。つまり、驚くべきことに、
「僕」は<今・ここ>(例:コンサート会場)にいる誰一人として自分とはR&Rできていないことを仄めかしているのだ。

では逆に、僕とR&Rできるあなた(You who can rock'n'roll with me)」とは誰のことか?それは、コンサート会場に押し寄せ<今・ここ>を「僕」と共有している(かのように見える)観客では決してないのだから、<今・ここ>には不在のあなた」のことではないか。すなわち、<今・ここ>には不在のあなた」(二人称の現前不在者)が僕とR&Rするときにのみ、僕は僕自身でいられる。二人称の現前不在者は死者であるとは限らない。まさに今ここ(コンサートが行われている会場)には存在していない「僕とR&Rできるあなた」とは、実は彼のレコードの「聴き手」のことではないか。

こう考えると、コンサートの観客に絶望したボウイは、彼と非同期にR&Rできる彼のレコードのリスナー(二人称の現前不在者)に一縷の望みを託したのではないかと思えてくる。
 

Roxy Music訳詞「Always Unknowing」:今宵は星を見るのを止めておけ・目に見えるすべてのものを疑え・いつだって何も知らない

明けの明星を目で追う
だが常に動きつづけることに
意味はない

お前が知りたいことをすべて君に教えよう手に入れろ
代わりに少し私に時間をくれ
いつだって
何も知らない

世界が通り過ぎていく
世界はまさにそのように見える
いつだって
何も知らない

私の側を離れるな
常に動きつづけることに
意味はない

もう一度だけ
私にチャンスをくれ
いつだって
何も知らない

今宵は
君の視線に
ひるむ

今宵はやめておけ
お前のいつもの「(星を)見ること」を
いつだって
何も知らない

これまでも
これからも
何も知らない


Roxyの"Always Unknowing"はシングル"Avalon"のB面曲であり、私もそのタイトルに惹かれて同シングルを発売当時(1982年?)に購入した記憶がある。だが当時、レゲエのダブ風のサウンドには「おぉスゲェ」となったものの、その歌詞の意味は私にとってチンプンカンプンだった。

この歌詞の一番の難所が"Hold back tonight / With your sight"というラインであり、今野雄二氏の訳(『ブライアン・フェリー詩集 アヴァロンの彼方へ』シンコー・ミュージック刊、1987年より)では「君のため息が夜を止める」となってた。しかし、そもそも、この本に掲載されている原詩では、"tonight"を"the night"、"sight"を"sighs"と聞き間違えている。

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もしこの行が"Hold back the night / With your sighs"であれば、「君のため息が夜を止める」というベタな歌謡曲風のセリフが適切な訳となるだろう。実際、"Hold back the night”という曲(https://youtu.be/X49doPwp0bchttps://youtu.be/sN-LH7EU6z8)が存在しており、日本語でもモロに「この夜を止めて」などという歌詞があるようだ。

だが、"hold back tonight"で検索すると、その否定形である"Don't hold back tonight"というフレーズが数多くヒットする。どうやらこのフレーズは、パーティーなどで「今夜は遠慮しないでね」~「今夜はトコトン羽目を外そうぜ!」という意味で使われているらしい。このフレーズから否定形の"Don't"を取ると、「今夜はためらう、ひるむ、躊躇する」という意味になる。

さらに、この曲では明らかに、アルバム"Flesh+Blood"と同様に、「目に見えるもの」ないし「視覚」を批判的に取り上げていると思われる。明けの明星を目で追う(followする)こと、常に動き続けることに意味はない、君はあらゆることを知ろうと欲している、世界がまさに通り過ぎていくように見える(how it looks)、だがいつだって何一つ知りえることはない。だから、今宵、私は君が私に投げかける視線(sight)に躊躇する。

追記その1(2019/01/12):

この訳詞を岩谷宏氏のブログ記事(http://alga.moe-nifty.com/xor/2018/12/post-0cb2.html?cid=142300439#comment-142300439)のコメント欄に投稿したところ、岩谷氏から有益なアドバイスおよび批判をいただいた。

氏によれば、"Hold back tonight / With your sight"というラインは直訳では、

今宵は今視界にあるものだけでおとなしく満足していろ、要らざる手出しをするな。

であるとのこと。これに対して私は次のように返信した。

なるほど、敷衍すると「自らの視覚(sight)を超えて、対象物の背後に隠れている真理(とやら)を暴こうとする行為を、今宵は止めておけ」みたいな感じですかね。

なお、こちらの辞書(https://www.collinsdictionary.com/dictionary/english/hold-back)では、句動詞"hold back"が次のように定義されていました。

"If you hold back or if something holds you back, you hesitate before you do something because you are not sure whether it is the right thing to do. "

この定義を踏まえると、"Hold back tonight with your sight"というラインは、「汝の(身体に生来備わっている善悪の不確かな)視る力(sight)の行使を今宵は躊躇せよ」のようにも訳せるかなと思いました。

すると岩谷氏からは、そもそも"hold back with x"という句動詞は、「xを保つ、xに踏みとどまる」という抑制の意味であり、ここでxは動詞の目的語にはならない。それを踏まえた上で、"Hold back tonight / With your sight"は「今夜は、姿が見えるだけで我慢しろ」などと訳すのが「正解」であろうというアドバイスをいただいた。また、私の訳詩/訳詞観に関して次のような批判も頂いた。

共通的普遍的意味のある散文と違って詩は、訳が超難しかったり、不可能であることも多いです。安易に、訳せると思わない方が、正解であり礼儀です。

これに対して私は次のように返信した。

もちろん、そのような使われ方の方が一般的なのかもしれませんが、口語的な表現では、「xに関して自制(我慢)する〜xを差し控える」という意味での使われ方も一部にはあるようです。

例:Alex Trebek doesn't hold back with comments about #MeToo and how Trump would do on 'Jeopardy!'
(引用元:https://www.msn.com/en-us/tv/news/alex-trebek-doesnt-hold-back-with-comments-about-supernumbermetoo-and-how-trump-would-do-on-jeopardy/ar-BBPFBwU

訳:「Alex Trebek(アメリカのTVタレント)は、'Jeopardy!'(彼が司会する番組)で、#MeTooおよびトランプ政権についてコメントを差し控えなかった(==率直なコメントを述べた)

> 安易に、訳せると思わない方が、正解であり礼儀です。

わかりました。今後は、翻訳可能であると思われる場合には、できるだけ悪ノリを自制し、万人にわかりやすい、すっきりとした、きれいな翻訳を心がけます。


上記のコメントを同氏のブログに投稿したところ、そのコメントはスパム扱いになって掲載されなかった。余りに長いURLを<a href=>タグに埋め込んだのが悪いのか、それとも私のコメントがあまりにウザいので、同ブログを出入り禁止になったのかもしれない( ノД`)シクシク…。←今ココ

追記その2(2019/01/13):

岩谷宏氏のブログを出禁になったかも」は私の杞憂であった。問題の投稿にはヘイトスピーチと見なされる文言も含まれていないため、長大なURLを埋め込んだことがスパムとして処理された原因かと思われる。

その後、ネットを掘りまくったところ、どうやら口語表現としての"hold back with x"は、"hold back on x"と同じような意味で使われている場合が多いことが判明した。ここで、特にxが何らかの「行為」を表しているか、または何らかの行為に結びついている名詞である場合、"hold back with x"はx(という行為)を控える/自制する/躊躇する/止める」という意味になるようだ(参考:https://eow.alc.co.jp/search?q=hold+back+on)。

例1:Alex Trebek doesn't hold back with comments about #MeToo and how Trump would do on 'Jeopardy!'

試訳:「Alex Trebek(アメリカのTVタレント)は、'Jeopardy!'(彼が司会する番組)で、#MeTooおよびトランプ政権についてコメントすることを差し控えなかった(==躊躇なく率直にコメントした)

例2:Keane doesn't hold back with his criticism of Liverpool's Moreno
試訳:「Keane(サッカー選手)は、リバプールのMorenoに対する彼の批判を隠さなかった(==批判することを躊躇しなかった、躊躇なく批判した)

Please don't hold back with your comments
試訳:「あなたのコメント(を投稿する行為)を差し控えないでください(==遠慮なくコメントしてください)

Mario Basler did not hold back with his praise for Pep Guardiola & Co. this season
試訳:「Mario Baslerは、今シーズンのPep Guardiolaとそのチームに対する称賛を惜しまなかった(==称賛することを躊躇しなかった)

どうも"hold back with x"は否定形で使われることが多いようだ。肯定形の例はないかと探したら、次のものが見つかった。

Will you now hold back with your criticism and praise his music so he can be happy?
試訳:「もう批判するのは止めて、彼がハッピーになれるように、皆で彼の音楽を称賛しようじゃないか。

さて、"Hold back tonight with your sight"というラインの分析に戻ろう。ここで"sight"を漠然とした「見ること」ではなく、「(光学機器などを使って)観測すること」だと解釈してみよう。

この解釈は突飛なものではなく、むしろこの詩の文脈からすると、とても自然なものだ。なぜなら、この詩は「開けの明星を(目で)追う」(Following the morning star)で始まっているのだから!当然ながら、大抵の場合、「星を目で追うこと」は肉眼ではなく天体望遠鏡を使って行われるのであり、それは通常、「観測」と呼ぶにふさわしい行為だ。

これらを踏まえると、"Hold back tonight with your sight"は次のように訳すことが可能だ。

今宵は観測を控えろ


すなわち、この詩の語り手は、毎夜習慣的に星の観測を行っているのだが、惑星の運動に関して何の意味も見出すことができず、彼は「自分が常に無知である」と感じている。そのような境地の中で、彼は自分自身に向かって次のように語りかける。

お前が毎夜習慣的に行っている星の観測
(という行為)を今宵は止めておけ




プロコル・ハルム訳詞『青い影』:セクハラは共同体のメンバーが不可避的に抱え込んでしまう宿痾であり、この不治の病を完治するためには、人は共同体のメンバーとしては死ぬ必要がある

曲が軽めのファンダンゴに変わったので
僕らは踊るのを止め
代わりにダンスフロア中を側転して回った

フロアに集まった大勢の人たちは
僕らにもっと続けるようにとせがんだが
僕は船酔いしたような気分だったので止めておいた

テーブル席に着いて休んでいると
ダンスルームには嫌な匂いが立ちこめており
しかもその匂いは徐々に強くなってきた

すると驚いたことに
いきなり部屋の天井がどこかに吹っ飛んで
新鮮な空気が入ってきた

さらに奇妙なことには
僕らが酒のおかわりを頼むと
ウエイターが持ってきたトレイからは
そこにあったはずの酒がすべて消えていた

そしてそれが起きたのは
ダンスパーティが済んだ後のことだった
バンドに代わって舞台に上がった漫談家
ある有名な艶話(つやばなし)を語ったとき
(てっきり彼女も他の聴衆と同じく笑うだろうと思っていたのに)
初めは幽霊のようだった彼女の顔色は
さらに蒼白へと変わっていった


訝る僕に対して彼女はこう言った
「別に訝ることないでしょ、真実は見たまんまだから」
僕は自分の切り札のうちどれを使うべきかと迷い続けていた
僕は彼女を
岸へと向かう(30歳になるまで性交渉を禁じられるという)
16人のウェスタの処女のうちの一人にはしたくなかったのだ
僕の両目は開いていたが
それらは実際には
(彼女を肉体的に征服したいという欲望によって)
ずっと閉じられていたのかもしれない

彼女は言った「上陸許可が出たから家に戻るわ」
実際には僕らはまだ海の真っ只中にいるというのに!
だから僕は彼女を鏡の前まで連れていき
彼女に同意を強いるためにこう言った
「見ろよ、君はネプチューンを欺いた人魚なんだろ!」
だけど彼女は
とても哀しそうに僕に向かって微笑むだけだった
するとなぜか
僕の猛り狂った怒り(性欲)は急に消えてしまった

「音楽が愛の糧(かて)ならば
さしずめ笑いはその女王だ
そして同様に
後ろが前なら
卑猥な言葉は実は清く正しい」

僕がそう口にしたとたん
段ボールのようになってしまった僕の口は
僕の頭から一気に滑り落ちたように思えた

そして僕らは
真っ逆さまに急速潜航し
海の底へと達した


訳詞解説:

セクハラ関連の暗い話題が絶えない今こそ、私は次のように強く主張したい。セクハラは共同体のメンバーが不可避的に抱え込んでしまう宿痾であり、共同体の内部では完治できない。この不治の病を完治するためには、人は共同体のメンバーとしては死ぬ必要があると。

さて、『青い影』という、この難解で知られる曲/詩を翻訳してみようと試行および思考した結果、私は次の結論に達した。すなわち、この詩は、「エロス(セックス)を超えた他者への愛または他者からの愛」が厳然として存在することを、性欲で目の眩んだオトコどもに向けて静かに諭す「アンチ・エロス(セックス)ソング」なのではないかと。

そもそも、ブルース~ソウル~ロックの楽曲の99%は「ラブソング」といえば聞こえは良いが、実際にはそのほとんどは「エロス(セックス)礼賛ソング」だ。例えば、ツェッペリンの『天国への階段』も、煎じ詰めれば性交を「全即一かつ一即全」なる聖なる合体として賛美する単なるエロス賛歌だ。これに対して「アンチエロス(アンチセックス)ソング」は、ロック音楽というカテゴリー内には滅多に存在しておらず、すぐに例が思い浮かばない。その意味でも本作品は貴重だ。

本作品の解釈に先立って、冒頭の有名な「ファンダンゴをスキップ(♪スキッパーらに餡団子を♪)」するくだりの前に挿入されるべき導入部として、次のような仮定を置くことにしよう。

(語り手である)「僕」は「彼女」と豪華客船上のダンスパーティーで初めて出会った。彼女は文字通り「どこからともなく現れた(came out of nowhere)」。僕らはすぐに意気投合し、ダンスフロアの舞台上でバンドが演奏するハードなロケンローにあわせて、二人で激しくダンスを踊りまくった。そして、その後、バンドの演奏する曲が軽めのファンダンゴに変わったので、僕と彼女は踊るのを止めた。


この詩が全体として謎めいているのは、

  1. 部屋の嫌な匂いが強まったら、いきなり天井が吹っ飛んだ
  2. おかわりを頼んだら、ウエイターが空のトレイを運んできた
  3. 僕の口が段ボールのようになり、頭から滑り落ちた

これらの摩訶不思議な現象が発生した理由について何も触れられていないからだ。その理由について、さらに考察(妄想?)を重ねた結果、私は最終的に次の仮説に到達した。

「彼女」は異界から来た魔女だから。

つまり、これらの摩訶不思議な悪戯っぽい現象はすべて、魔女である彼女の仕業なのだ!

実は、彼女が魔女である(かもしれない)ことを仄めかすヒントが、この詩の中に隠されている。それは次のIF-THEN文だ。

if behind is in front then dirt in truth is clean


これは当然ながら『マクベス』の魔女が言う次の台詞を連想させる。

Fair is foul, and foul is fair


彼女が魔女だと仮定すると、最大の謎である次のリフレインの意味も明らかとなる。

And so it was that later
as the miller told his tale
that her face, at first just ghostly,
turned a whiter shade of pale


粉屋の話」(https://en.wikipedia.org/wiki/The_Miller%27s_Tale)を聞かされた時、なぜ彼女の顔面は蒼白となるのか。その理由は、

彼女は「どこからともなく」現れた魔女であるため、僕やその他の客と同じ共同体には所属しておらず、それらの人々とは生活様式を共有していないからだ。

彼女はエロティックな笑い話を聞かされた結果、「僕」が想像だにしなかった反応を示す。彼女は笑いもしなければ、「まぁ下品ね」などと顔を背けることもしない。彼女の幽霊(この世のものではない者)のような顔は、ただただ蒼白の度合いを増すだけなのだ。このような彼女の反応は、特定のシモがかった笑い話を共有できる共同体のメンバーである「僕」にとって、非常に不可解であり、不気味であり、かつ心底恐ろしいものなのではないか。

さて、「僕」は結局どうなったか?僕は彼女と共に海中に飛び込み、急速潜航した結果、最終的に海の底へと到達する。
つまり、「僕」は死ぬ。

重要なのでもう一度強調しておこう。

セクハラは共同体のメンバーが不可避的に抱え込んでしまう宿痾であり、共同体の内部では完治できない。この不治の病を完治するためには、人は共同体のメンバーとしては死ぬ必要がある。

ボウイ訳詞『Time』:○○とは何か。そう問われない時には私はそれを知っている。だが、そう問われた時に私はそれを知らない。小説と数学の共通点に関するメモ

時間 ー 彼は舞台の袖で待っている
彼は意味のないことばかり口走る
彼のスクリプトは君と僕だ

時間 ー 彼は娼婦のように体を曲げる
マスかきながら床に倒れ込む
彼のトリックは君と僕だ

時間 ー クアールード(
Quaalude*)と赤ワイン
ビリー・ドールを召喚する
そしてその他の僕の友人たちも

Take ー まぁそう慌てずに
Your ー 君の好きなだけ
Time ー たっぷり時間をかけてくれ

脳内の狙撃者
逆流する下水溝
近親相姦の自惚れ屋の
そしてその他多くの姓(かばね)たちよ

僕はふと腕時計を見る
時刻は9時25分だ
そして思う
「おお神よ、僕はまだ生きています!」

さあ、そろそろ出なきゃ
さあ、そろそろ出る時間だよ

君は ー 被害者じゃない
君は ー 退屈で叫んでいるだけ
君は ー 時間を追い立てはしない

鐘の音 ー 畜生、君、やけに老けて見えるよ
そんなんじゃ凍えて風邪を引くよ
なぜってコートを置いてきたから

Take ー まぁそう慌てずに
Your ー 君の好きなだけ
Time ー たっぷり時間をかけてくれ

別れることは辛いけど
破綻した関係を隠し通すことはもっと辛いよ
僕はこれまでたくさんの夢を見た
そしてたくさんの驚くべき飛躍を経験した
だが愛する君よ
君は確かに優しかった
けれども愛が君から夢を奪った
夢への扉は閉ざされた
君の庭園はリアルで夢がない

恐らく君は微笑んでいる
この暗闇越しに微笑んでいる
だけど僕が君に与えなければならなかったものはただ一つ
それは
夢見ることへの罪悪感

さあ、そろそろ出なきゃ
さあ、そろそろ出る時間だよ
さあ、そろそろ僕ら、揃って舞台に出る時間だよ

そう、時間だ

*注:Quaaludeとは米国で製造されている薬物メタカロンMethaqualone)の商品名。

原詩:https://www.azlyrics.com/lyrics/davidbowie/time.html

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訳詞解説:
「○○とは何か。そう問われない時には私はそれを知っている。だが、そう問われた時に私はそれを知らない」という名言(?)が存在する。これは、特定の共同体内部の暗黙の了解に基づいて○○という言葉を使用することと、当該共同体の内部には存在しない者に向けて○○を明示的に定義することは全く異なる行為であることを意味しているのではないか。

いつだったか、たけし(ヨーローじゃなくてビートの方)が「小説と数学は似ている」と発言したことがあったように記憶していたのだが、ググっても出てこなかった。出てきたのは、「映画を撮るときには数学的(または論理的)なアプローチが有効だ」という単なる凡庸な話だった。

我思うに、小説と数学が似ているのは、どちらも意図的に未定義語の存在を許すところだ。

そして両方とも、いくつかの公理(決まり)を守りさえすれば、どんなにアクロバティックなことをやろうと許される世界であることが共通している。ある種の人にとって小説空間とは自由な楽園なのだろう。それはまるで、ヒルベルトが称揚した「カントールが我々に切り開いてくれた数学という自由な楽園」にそっくりだ。

「自由」と「放恣」の線引きは難しいが、例えば「カントールが切り拓いてくれた数学というこの自由な楽園」とかいう時の「自由」とは限りなく「放恣」に近いのではないか。カントール-ヒルベルト-ゲーデルという系譜をして、数学史に名を残す希代の「悪ノリ三人衆」と呼んだのは、ユニークな宇宙物理学者である佐藤文隆氏だった。

"小説ではいくら知ったかぶりを書いても物語世界内に適応してさえいればいい"(by 筒井康隆、『金井美恵子エッセイ・コレクション1:夜になっても遊びつづけろ』P.349~350からの孫引き)。小説とはそもそもが嘘なので、嘘空間の中でいくら嘘をついても誰からも糾弾されることはない。だって全部嘘なんだから。小説の中では、フォルクスワーゲン車にラジエーターが付いていたとしても、ボブ・ディランの「Stuck Inside of Mobile with the Memphis Blues Again」の中の"Mobile"を「車」と誤訳したとしても全部許されるのだ。

また、小説と数学の共通点として、どちらもフィジカル(物理的・肉体的)な現実を「仮想化」する営みであることが言えるのではないか。

ここで「仮想化」を「機能やサービスを抽象化して物理インフラから分離すること」と定義するならば、歴史的には、デデキントによる「無限」の定式化から「数学の仮想化」が本格的に始まったと言えるのではないか。デデキントが登場する以前においては、数学者は「数のイデア」というプラトン的妄執に囚われていたために長い間「数自体」を分析対象にできなかったのではないか。

思いっきり単純化した数学史的には、デデキントは、神が与え給うた崇高なるイデアだと思われていた「無限」を集合(発表当時は「システム」)という概念を使って定式化し、「(自然)数自体」を覆っていた神秘のベールを取り払った。その後、ヒルベルトが数学の徹底的な「公理化」を進め「数学の仮想化」が完成するかに思えた矢先に、ゲーデル・ショックが起きた。

仮想化にはオーバーコミット(オーバーブッキング)が付き物だ。だが、仮想化の基盤となる物理インフラが揺らいだ時、オーバーブッキングの嘘が暴かれ、仮想化が齎していた快適な楽園空間は実は幻想に過ぎなかったことが明らかになる…というシナリオで数学という自由な楽園にゲーデルが与えたショックを考えること。また、同じシナリオで、数学という自由な楽園にウィトゲンシュタインが与えたショックを考えること。

そしてさらに重要なのは、今日のパーソナルコンピュータプログラミングの普及と、プログラムのソースコードの全面的公開の日常化が、数学と呼ばれているこの古くて奇妙なディスコミュニケーション形態をいかに変容するのかに注目すること。

2017/10/22付記:赤字部分は以前「数学という奇妙なコミュニケーション形態」と書かれていたが、これでは「コミュニケーション」という語の定義が曖昧であるため訂正した。コミュニケーションを取りあえず「世界の複数性を前提とした、自分の意のままにならない自分以外の主体であるまったき他者との、その他者への最大限のリスペクトを基盤とした関わり合い」と定義したとすると、数学と呼ばれている非常に長い歴史を持つ文化活動はコミュニケーションではない。なぜなら数学には他者がいないからだ。同じ意味で形而上学にも自然科学にも他者はいない。もちろん文学(小説はそのジャンルの一つ)にも他者はいない。ボウイを含む1960年代~70年代後半までの一部の先鋭的なロック音楽の歌詞には、このような「自分が現在生かされている世界における他者不在状況」を克服すべき課題として指摘したものが多い。例えばB.フェリーのカバーで有名なボブ・ディランの「It ain't me babe」は「君が探し求めている対象、それは僕じゃないよ」という歌だし、ロックスターとそのファン(観客)という固定的な関係を打破することを観客に向けて諭すように歌った本曲「Time」もその一例である。

訳詞に関する蛇足:本曲『Time』の歌詞から「時間とは何か?」という問いに対するボウイによる哲学的な答えを引き出せるかもと期待した人は完全に裏切られる。本曲のテーマは「時間」という抽象的概念ではなく、ロックが好きで始めたはずなのに、今や時間に追われながら義務的にコンサート日程をこなし続けなければならないロックスターが吐露する「こんなはずじゃなかった感」であり、そのようなコンサートを行うことをロックスターに要求し続ける、夢を忘れた自堕落な観客への決別の挨拶だ。その意味では、Kinksの「WORKING AT THE FACTORY」やサザンオールスターズの「働けロックバンド」の歌詞に通じるものがあるかもしれない。なお、本曲のサビのキメ台詞である"We should be on by now"が何を意味しているかは私にとって長年の謎だったが、これが多くのネイティブ英語話者にとって「さあ、そろそろ僕ら(舞台に)出なきゃ」を意味していること、そしてこれが冒頭の一行「時間、彼は舞台の袖で待っている」に呼応していることを、https://www.quora.com/What-does-the-we-should-be-on-by-now-line-mean-in-David-Bowies-song-Time?share=4c9a47aaに書かれていたNeil Anderson氏の回答により知った。